メールの輪
第137号
平成23年7月1日発行
三原市老人大学
メールの輪新聞 編集委員会
時の流れ 棚田は今!   宮畑 明文 
   
 2007-6-4 撮影  2011-6-14 撮影
  50数枚の棚田も4年前とは大きく様変わり、田植えがしてあるのは4枚のみとなっている。耕運機もかくの如く錆びついている。全国各地の棚田も維持をするのは、手作業が多く大変だと思われる。畦造り、畦の草刈り、田植え、稲刈りなどは棚田の数が多いから大変である。自分も農家出なので経験している。 
 
 
 
 
 
 

 ペテン師呼ばわりをされた現総 理も、国会議員を辞めるといって、 やめないで、前言をひっくり返し嘘 を言った前総理には、「あんたには 言われたくはない」と言いたかったと思う。それにしても坊ちゃん気質の前任者を、手玉にとって不信任案を否決させたやり口は見事である。 その後の粘り腰も一筋縄ではいかない。総理の椅子は絶対に渡してなるか!の執念はものすごい。ご立派。  

 最少不幸社会を目指すといったが、今の日本は最大不幸社会といっても過言ではない。地震による被害よりも、その後の政府の対応と国民そっちのけの権力争いである。地震のときの日本人の姿勢に、世界中から賞賛を浴びたのに、今や日本の地位は下がりっぱなしである。  

アングロサクソンの政治格言に

1、最も愚かな政治家は世論に反攻する。

2、凡庸な政治家は世論に従う。

3、優れた政治家は世論を醸成し引っ張っていく。  

 さて今の政治家たち、どれに相当 するのだろう。時の最高指導者たち が揃ってうそをついても平気でいる。 「教育上はなはだよろしくない」と、 経団連会長が批判されていた。もっ ともな発言である。  

 S紙の投稿川柳にこんなのがある。 「ゆくゆくは辞める総理に国託す」 「ペテン師が党の顔とは驚いた」 やりきれない思いがする。    宮畑  
 
 
 
 
 
東京便り NO.24       佐々木 朝雄 
 
 ㈶ライフ・プランニング・センター

 (一人ひとりに与えられた健康をより健全に保ち、充実した人生を送ることを願って活動している団体)主催の「想いをつなぐ生きかた」講演会が、港区・笹川記念会館 国際会議場であり、聴講しました。

第一部「再び歩みはじめる時期(とき)」
    垣添忠生先生   財団法人日本対がん協会会長


● 現在、わが国で年間34万人が癌で命を落しているそうです。右記に書いた様に最初に講演された垣添先生は国内屈指の治療実績を誇る「国立がんセンター」の専門医の最高峰におられた方です。しかし、その垣添先生の奥さんも癌で亡くなられたそうです。医師であるにも関わらず、最愛の妻を救えなかった経験を赤裸々に話され、深く感動をしたので、お伝えしたいと思います。

 あらまし

 奥様との出会いは、卒業後26歳のとき、実家の近くの病院にアルバイトに行った時、入院しておられた奥様の診察がきっかけで言葉を交わすようになり、退院後も、往診に行かれるごとに、数回会った頃には、「結婚するならこの人しかない」と感じるようになったそうです。しかし事はそう簡単には進まなかったようです。それは、この時、奥様は先生より12歳も年上の38歳で、別居中ではあったが、すでに既婚者。しかも病弱の身。両親に結婚したいと話すと もちろん猛反対されたので、傘1本をつかんで家を飛び出し奥さんのもとに転がり込んで生活を始めたそうです。3年後、やっと両親から許されて夫婦となられました。この様な大恋愛でようやく夫婦となったお二人でしたが、奥様は、2000年にごく小さい肺癌が見つかり、国立がんセンターで左肺の一部を切除、また数年後には、甲状腺癌で、甲状腺の大部分とリンパ節を切除、更に三年後の定期検査で再び頚部リンパ腺に腫れが見つかり切除。そして、2007年2月に右肺門リンパ節のCT検査で「肺小細胞がん」発見され、化学療法・放射線治療を、5ヶ月間行われた。しかし、MRI検査で多発性脳転移・肝転移・肺転移・副腎転移が確認され「もう駄目だ!」と奈落の底に突き落とされたそうです。   

 その後、化学療法が始まったが、悪化の一途をたどり、40年間の夫婦生活が終わったと、医師としてのもどかしさを話されました。 私も兄、親戚、友人、知人を癌で亡くしましたが、私でさえ何も出来ない自分に情けなさを覚えた位ですから、医師である先生はどれ程だっただろうと想像を絶する事だと思いました。

 又、我が国の癌対策に深く関わっている人間の一人として、こうした体験を公にしておく必要もあるだろうと話されましたが、この様な医師ならば、患者や家族の身になって、治療を行っていただけるだろうと感じました。そして、又、この様な体験がなくても患者や家族の気持ちの分かる医師が増える事を望み、何よりも日本の医学の更なる進歩を願います。

第二部「道しるべとなる生き方」

日野原重明先生  ライフ・プランニング・ センター理事長

● 日野原先生は、今年百歳(明治44年10月4日生)を迎えられますが自ら、「今年を人生のスタートライン」と名付けられて積極的に挑戦に取り組まれています。5月4日には、東日本大震災の復興を願い南三陸町を訪問をされました。 今回の講演では、パワーポイントを使いながら、この訪問を中心に我々は、今、何を為さねばならないかを、御高齢にも関わらず、壇上を歩き回りながら話かけられました。

● 明治29年に岩手で生まれた宮沢賢治の生涯は、数々の災害に直面していたが、うちひしがれながらも立ち上がろうとする東北の人々に、あの有名な「雨にも負けず」を書きとどめていると話されました。

● 歌津中学校の避難所にいた人たちを見舞われると、「百歳になる先生が東京からいらした!」と、多くの方が集まり先生は一人ひとりと、ひざをつき合わせて語り合ったり、その方たちの血圧を測ったり、希望を失っている人たちに、再起を祈りつつ握手をして励まされたそうです。  

★最後に・・・

 今回は少し重たいテーマになりましたが、5月末に私は85歳の誕生日を迎え、この講演会に参加して、日ごろの生活を再検討する良い機会になりました。

 震災から3カ月経ち、当時はほんの少し影響があったものの、今は以前と変わらない生活になりました。しかし、節電や防災対策を見直し、パソコンも使わない時はコンセントから抜くようになりました、又、家具には転倒防止を取り付けました。

 毎日朝のラジオ体操や散歩を行い、定期検査は必ず受け、残りの人生を心身共健康で、前向きに、明るく、充実した時間を送れるよう努力をしたいと思っています。  
 
 
 
 
 
 円形分水                   安棟  勝
 
 昨年11月、機会あって大分県竹田市の、円形分水を見学することが出来ました。その後、この設備が歴史のある貴重なものであることを知るにつけて、その見学の機会を得たことに感謝しています。

 この設備は、昔、農業用水の分配をめぐって、争いが絶えなかったので、その解決方法として構築されたもので、先人の知恵を知ることの出来る、大変興味深い設備です。  

 写真の円形分水部分は昭和9年(1934)に完成、昭和59年に改修されたものだが、問題はここまでの導水路でした。

 紆余曲折を経て、工事開始から200年の歳月を要し、取水口から、ここまでの約2キロメートルの導水路(トンネル)が通水出来たのは明治25年(1892)でした。  

 しかし、その後まだ、長い間、ここから三方向の幹線水路に分配するのに争いが繰り返されてきた。その解決方法として作られたのが、やっと、昭和九年に完成した、この円形分水で、以後水争いは無くなりました。  

 適正な水の分配方法とは、宮砥・入田・姥岳など南部の三方向への幹線水路に、夫々の地区の耕地面積に比例した水の量を配分する方法である。  

 2キロメートルの導水路を通ってきた水は、地下から円形の中央に湧きだす。周囲の、円形の壁には20個の四角な穴があり、現在、5・8・7個に割り当てられて、各地区への水路に送られている(先人の知恵の結晶である、円形分水はC級近代土木遺産に指定されている)。  

 完成までに、242年を要した、歴史を知り、農業用水の貴重さと、先人の知恵を感じます。

注: 元禄6年(1693)に始まる。水源の大谷川取水口からの水路掘削工事は、ノミと槌とツルハシでの開削であり、途中、水路橋をかけるなど難工事であった。途中まで完成した水路が暴風雨などの災害で壊され,工事担当の須賀勘助の引責割腹。資金難で挫折、明治九年に基礎調査再開、同25年に通水完成まで200年の苦難の歴史があった。
 
 
 
 
 
 
 
あやめまつり散策          廣勢 一三  
 
 府中市上下町矢野の矢野温泉公園で、あやめ祭りが開かれていると聞き、家族で遊びに行った。

期間:6月11日~26日まで

時間:9:00~17:00期間中無休

 あやめまつりの開催期間中には、たくさんのカメラ愛好家が訪れ、朝早くからシャッターチャンスをうかがっている。毎年の気象条件によって、花の咲き具合も変わるので、毎年変化に富んだ写真が撮れているとか。

 おまつりの期間中、週末にイベントを開催が開催され、今年はホークダンスと、大正琴の演奏会が行われた。

 園内には食べ物や苗木などの露天商も出て、祭りを盛り上げていた。

 今日も駐車場は一杯で、バスで来た客も多く、気に入ったあやめにピントをあわせ、静かな園内にシャッターの音がする。

 アヤメには水が引かれていて、せせらぎの音が聞こえる。また、どこかで蛙が飛び込んだような、小さな水音が聞こえてくる  
 
 
   
 アヤメには80種余りの種類があると言われ、ここでも苗床だろうか、多くの名札が立てられている。  ここではそば打ちの体験コーナーがあり、そばも多く獲れるようで、畑はそばの花ざかりであった。
 
 
 
 
 
路傍の花                   安棟  勝  
 
 何時も通っている我が家の近くの路傍に、小さなサボテンの花が、今年も可憐に咲いていた。

 ミカン園の排水溝の、壁と縁にしがみ付くように、生きているが、誰が手入れする訳でもない。むしろ邪魔者扱いで、踏まれたり、蹴飛ばされたりしながら、冬の寒さで枯れて仕舞ったのかと思っていても、「どっこい生きている!」と美しい、黄色の可愛い花を咲かせていた。

 1週間位、咲き続けるのか?蕾と花ガラと、今咲きましたと言わぬばかりの美しい花が見られる。  梅雨の、シトシト雨の中で、シッカリと咲いている姿は心を癒される思いがする半面、苦境に弱い人間に「シッカリしなさい!」と、励ましているようにも思える。

 昨日、通りかかった道ばたの残り花を見て、励まされたような感慨を受け、いとおしい気持ちで撮影した可憐な花の姿を見て下さい  
       
 
 
 
 
 
 
 
雨のさつき祭り            宮畑 明文  
 
 今年のさつき祭りは、あいにく2日間とも雨が降り、例年のにぎわいはなく、ちょっとさびしいものとなりました。この日のためにいろいろと準備をされた方は本当に残念だったと思います。でも屋台の食べ物屋には、雨の中、傘をさしてかなりのお客が好きなものを求めて廻っていました。
 食べ物屋には好きなものを求めて こんなに人がきていました  
とはいうものの、人が寄り付かず タコの顔も恨めそうに見える
 毎年子供たちに大人気の列車も子供たちの姿はなく、早々と撤収
 
お客様は3人の子供たちだけで した。後ろ姿が印象的でした。
お客さまは神様です。雨の中熱心に集まってくれました。   
 
 
 
 
 
 
早朝の散歩道から          宮畑 明文  
 
 毎朝夜が明けると、近くの山裾にある瘡神神社にお参りをして、県立大学の下をぐるりと回り、気の向くまま約1時間散歩をしている。  

 散歩の道端に植えてある花や自然の草花、知人の畑に植えている野菜の出来具合など、興味を持って歩いていると、なかなか面白い発見がある。

桑の実がどっさり、びっくり!
   
木がたわみ、折れるのではないかと思うほど桑の実がなっている。熟れた実を食べてみたが酸っぱかった 

 知人の畑の桑の木に、ものすごい量の実がなっているのに、びっくりした。 自分の育った村落には養蚕農家がたくさんあり、家の周りには桑畑がほとんどで、よく桑の実が熟れたら、取らせてもらっていた。でもこんなに団子状に実がついているのを見たことがない。  

自然のおりなすキャンパス!  
 
雨にぬれる県立広島大学の下の歩道。毛虫かと思ったら、木の花が落ちたものだった。真上からカメラでみたら、こんな模様に見える。

 道路が赤く染まって見えるので、しゃがみこんでみたら、小さな木の花の粉だった。葉っぱの散らばり具合との模様が面白いと思った。

 雨の朝、傘をさして散歩をしていると、誰も歩いていない歩道に、何やら毛虫のようなものがいっぱい散らかっている。なんだろうと傍に来てよく見ると木の花だった。上から風と雨のせいで、ぱらぱらと落ちてたものだった。真上からカメラのレンズを通して見るときれいな模様に見えた。自然の織り成すキャンパスである。

 また別の道では道路が赤く染まって見えるので、何か?としゃがんでみたら、小さい、小さい木の花の粉が落ちて、その周りに木の葉っぱが重なり、面白い模様になっていた。自分だけの小さな景色を見つけて楽しんでいます。   
 
 
 
町内はサルの出没でひと騒動 
 
 

5月下旬、町内の回覧板が回ってきた。「野生のサルが町内に出没したから、サルを見ても目を合わさないように、目が合うとおそってくることがある」と書いてある。 数日後、早朝散歩していると、パトカーが止まっているので何事かと、行ってみればサルが木の上にいた。 このサルはすぐいなくなり一件落着です。  
 
 
 
 
 
C型肝炎との戦い(二)    佐藤 紀久恵  
 
5、1回目のインターフェロン  

 この投薬(注射)を開始したのは老大講師3年目で、パソコン初級コースを3クラス担当していた。  

 インターフェロンはワンクールが48回とのことである。医師は『毎週は大変でしょうから隔週にしましょう。約二年間かかりますが……』と隔週金曜日・1回5時間の通院が始まったのである。  

 通院を始めると、中学時代の同級生(卒業時316名)にたくさん出会うようになり、妹の同級生にも会った。主治医が郷里の同級生だから不思議はないかもしれないが、金曜日の都合のつかない時には他の曜日にすることもあり、また別の同級生にも会った。卒業以来初めて会うような同級生もあった。【そうか!もしかして感染したのは《BCGの予防接種だったかも》と】思った。私は高校生のときまで陰性だったから。  

 副作用は通院開始当初は金曜日と土曜日に床に就いているくらいで、日曜日は家事がこなせた。しかし6ヵ月過ぎる頃からは身体がとても重く感じるようになり、日曜日も起上がるのがつらくなって来た。朝起きると髪の毛が枕に何10本か付いているのが目立つようにもなって来ていた。

 ある通院の日、70歳過ぎの婦人と待ち時間に話していると『私はインターフェロンを半分の量にしてもらっています、あまりにしんどいので』と言われた。これを聞いて単純な私は1ヶ月くらい考えた末、医師に申し出た。「半分の量ではいけませんか?」医師はあっさりと『しんどいですか?そうですか。半分にしてみましょうか』と。

 インターフェロンが半量になるとしんどさが減った。だが、通院から1年半経った投薬36回の頃、帰宅途中の車を運転しながら、ふと【これで本当にウィルスを退治できるのだろうか】と頭をヨギルものがあり、隔週に5時間・1年半の緊張が途切れてしまった。気持ちの持ち方というものは怖いもので、通院のエネルギーが出て来なくなってしまい、落とし穴に落ちたような気分だった。(本当の落とし穴に落ちたことは一度もないけれど・・・)

6、同級生の死  

 このころ同級生がひとり亡くなった。 彼のことは、あまり詳しくは知らないが、30代でB型肝炎を発症し入院しても、仕事・妻子のこともあったのか、無理やり退院したり、6
0代では肝癌の手術もしたらしい。  

 インターフェロン治療も同じ日に予約を入れて、待ち時間に話をしていた。 おしゃれで文武両道のバランス感覚が良いロマンスグレイの紳士であった。 一度、1時間余り車を運転し三原まで来てくれて、ジャスコの150円コーヒー飲みながら3時間くらい話して帰って行った。もちっとマシな場所はなかったろうか?と、粋なはからいのなかったことを、我ながら残念に思う。そして60代後半の彼の死は、友達というかけがえのない財産の中で、ほんとうに惜しい人を喪った。

7、2回目のインターフェロン  

 N病院に通うエネルギーを無くしたので、医師に転院を申し出た。家から近い所に肝臓専門医が開業されていた。11月にA医院を訪れて検査を受けると、やはりウィルスは消えておらず再挑戦することにした。

 医師は『一度目のインターフェロンでウィルスが強くなっていることもありますが、試してみる価値はあるでしょう』とのこと、年明けの1月半ばから12月半ばの48回である。

 火曜日と木曜日に老大に行き、間の水曜日には松永の食材配達業に『エクセルで注文書を作るのにどうしても貴女が必要だ』と言われて、断り切れず出かけるようになった。老大が月2回だったのは幸いだったが、要領の悪い私は準備がそれなりに大変だった。『手抜きすれば・・・』と横で言う人を無視せざるをえなかった。

 しかし、主人はもっと大変だったと思う。慣れない家事と老大の漢字書道・かな書道に毎週出かけていたのだから、漢字コースの代表もしていたように思う。

 この2回目の治療は3カ月もすると、体が鉛を入れたように重くなり、木曜日の午後から日曜日までは【寝て曜日】、月曜日から木曜日の午前までは【起きて曜日】だった。ちょうど1週間の半分を布団の中で過ごした。  

 とても幸いなことにA医院は家から近いこともあったが、血液検査装置は医院の中に設備があり、検査は10分くらい待つだけで往復を歩いても通院時間は一時間だった。そしてまた、白血球は、いつも3千を切ることなく 48回を一度も飛ばさず投薬ができたことであろう。

8、インターフェロンの投与の後  

 投薬が終わればすぐに元気になれるかと思い、ホームページの勉強を始めたが、体の重さはなかなか取れず、勉強は3週間も続かなかった。  

 ウィルス検査は、投与後1カ月3カ月・6カ月・1年・2年となされ、すべて陰性で、なんとかウィルスを退治できたようである。  

 それでも、長年ウィルスを大事に抱えていた肝臓は、健康な肝臓とは言えないので、3ヵ月に一度のエコー・6カ月に一度の何々・1年に一度の何々と見張っていなくてはならず、肝硬変・肝癌にならないように検査に行く。  

 この際、身体のあちこちを検査することにした。胃の内視鏡・大腸の内視鏡・肺のレントゲン・胸部CT・頭部MRI最後に婦人科。ここでも幸せなことに、A医師は胃腸専門医でもあった。今ではすっかり【掛かりつけの家庭医】さんとなって頂いている。医師会病院・日赤病院など、すべてこの医師から「紹介状」を頂き、予約までして頂いている。(もう一回 つづく)  
 
 
 
 
 
童謡「かもめの水兵さん」       山本 次郎  
 
   
 
 先月、三原市出身の童謡詩人「武内俊子のパネル展」が芸術文化センター・ポポロで開催され鑑賞に出かけた。   

 会場内ではあの懐かしい童謡「かもめの水兵さん」「赤い帽子 白い帽子」「りんごの ひとりごと」・・・  が静かに流れ、雰囲気を醸し出していた。これを聞くと、一変に童謡の  世界に引き込まれた。パネル板には  武内俊子の「生い立ち」「家族」「作品」等の資料が展示されてあった。   

 ポポロの園内には昭和53年10月に「三原郷土を愛する会」によって「かもめの水兵さん」の五線譜・  その歌詞を刻んだ「童話一路」の  記念碑が建てられている。    

武内俊子の経歴」   

 明治38年、三原市西町・淨念寺住職、渡辺俊哲・妻ツナの長女として生まれた。彼女は三原小学校を 経て、広島市の小学校に、県立女学校から女専に進学後、武内邦次郎と結婚し、東京に在住した。   

 野口雨情に師事し、子供たちへの愛情に満ちた童謡を数多く作詞するようになった。   

 「かもめの水兵さん」作詞のいきさつは、昭和8年9月24日、武内俊子はハワイへ旅立つ叔父を見送りに、横浜埠頭を訪れた。その日の  午後は見事な秋晴れで、青く澄んだ  横浜の空を舞うカモメたちの様子が  あまりにも美しく、印象的であった  と云います。  

 そこには、空一面が夕焼けで真っ赤 に染まり、海面に映える夕陽を背に受 けながら「飛び回るカモメ」たちの姿 がありました。

 この時の強い印象は、その日の帰り道すがら、一遍の詩として醸し出され ました。これが名作「かもめの水兵さん」誕生の瞬間でした。  

 この作品があまりに短時間で、すん なりと書き上がったことを嬉しく思っ た彼女は、帰宅直後、作曲家の河村光 陽に電話して、詩の内容を読んできか せたそうです。電話で知らせを受けた 光陽は、これまた即座にピアノの鍵盤 を叩きはじめ、直ちに作曲に取り掛か ったそうです。おそらく、感覚的に共 鳴する部分があったのでしょう。  

 作詞のヒントになったカモメは、横 浜埠頭であったものですが、三原の海 でもカモメは飛んでいます。恐らく、 子供の時に見た沼田川のカモメの情景 と、後の横浜埠頭でのカモメの姿がオ ーバーラップした作品と云われている。       (インターネット参照)  
 
 
 
 
 
猫の小道                   重本 紀美子  
 
 写真同好会の撮影会で尾道に行き ました。商店街のお茶屋さんが、子猫 の写真を見せて下さり、場所を教えて もらって、狭い急な坂道を上がって行 くと、猫の名前入りの絵が一枚一枚、 瓦にペイントされており、崖やブロッ ク塀、庭先などに貼り付けてありまし た。その絵のユーモラスで可愛いこと、 子猫たちには会えなかったけれど、温 かい思いやりに触れた気持ちで帰って きました。
スライドショー
 
 
 
  編集後記   
 
 6月はよく雨が降り、梅雨時期らし い気候でした。暑い夏がやってきます。節電も必要ですが、熱中症にかからないよう気を付けえましょう。 今月投稿してくださった方、ありがとうございました。

 次号は中山さんの担当です。できるだけ多くの皆さんの投稿をお願いします。 宮畑