メールの輪
 第139号
平成23年9月1日発行
 
 三原市老人大学
メールの輪新聞 編集委員会
 
 
     
                                               酷暑のイベント 
  
  今年の夏はいつもと違って35度以上の猛暑が日本列島を連続十数日も覆っている。恒例の「やっさ祭り」がやってきた。三原復興の活力になって欲しいものだ。
 
  佐木島のトライアスロンは全国的にも有名なイベントになっており復活のシンボルだ。甲子園の高校野球で例年通り、お盆休みのTV桟敷も賑わったのではないか。

                                              (やまもと)
 
 
 ゆく夏、朝な夕なに美しい朝顔をみると、心が安らぐ。今年の夏の暑さは格別だったように思う。猛暑日が連続十数日も続いた地方もあったという。

▼当局は連日猛暑と共に、福島原発事故の後始末、周辺地域の放射能汚染の対策ばかりで、被災地のガレキの処理が進まないようだ。

▼政界は夏の陣がはじまった。やっと総理が引退の腰を上げ、後継の兵どもが続々と名乗りを上げている、内向きの権力闘争に精力を使わず、外向きの国民や海外に目を向けてほしいものだ。

▼米国債の格下げで他国は大迷惑している。円高記録の更新、株安等無政府状態の日本は、この先、
 どうなるのであろうか?企業は海外へ移転し、失業者は増大して大不況が来るのでは・・・

▼暗い話ばかりではない、「なでしこジャパン」に国民栄誉賞が授与された。団体では初めてのことだそうだ。
また甲子園野球で広島県代表の「如水館高校」がベスト「8」まで進み、ひさびさの身近な話題では快挙であった。

▼駅前広場の用途先選別の議論が喧しい、「広報みはら」を見ていると、先に、結論ありきのようだが、もう少し議論が必要ではなかろうか・・・公共事業は五十年、百年の先を見据えたものにして欲しい。
                                                   (文責・山本)
 
 
 
宮島の花火                                    重本 紀美子 
    今年は三原の花火を撮りに行くと決めていたが、宮島の花火大会が同日だとインターネットで知り、急に思い立って行く。 

 場所取りのため、早めに出て宮島に着いたのが12時、しかし、よい場所は前日から確保してあり、1時間位探し歩いて、満足な場所ではなかったが三脚を立てて場所を確保する。

 花火が上がるまでの8時間の長かったこと!

 さすが、世界遺産、日本三景の宮島、花火も人出も半端ではない。

  行きはよいよい、帰りは恐いを実感、昨年は5万人の人出とのこと、今年も同じくらいだったのではないかと思う。 

 人波に流されてようやく、最終電車、白市止めで帰り、西条泊して翌日の一番電車で帰ってきた。

 
 
 
       白水ダム                         安棟 勝
 
 
 
 
 
    (注) 画像にカーソルが触れると矢印が になる写真をクリックすると拡大します。

    昨年11月大分県竹田市の白水ダムを見る機会があり、その美しさに感動した記憶は鮮明に残っています。
 ダム見学と言うことで、堰堤で川をせき止めて、水位調整は堰堤の途中にあけた放水口からの放水量を調節して行う方式を想像していました。

 山の中の細い道を抜けて、視界が広がった途端に、目に入った美しい、白い、水のカーテンを見たときには「えーっ」これがダム???と、一瞬目を疑いました。川の水は堰堤の上を越して流れ落ちているではないですか!
一見、無傷の白いレースのカーテンが下がっていて、下へ下へと流れ落ちているように見え、思わず「美しい!」と声が出た程でした。よく見ると、表面は小さな水紋が出来ながら均一に流れ落ちていました。

  これほど均一な水の膜が形成されるには、水門の上面は完全に水平で、凹凸のない、一直線に作られて居なければならないし、壁面も均一な面でなければならないが「工事担当者はさぞかし苦心した事でしょう」と推察したのは、技術屋のさがでしょうか?

  ダムの両サイドは、水の落下部分が工夫されていて、、右岸側は曲面の組み合わせ(武者返しました。)で水はゆっくりと直角に川に流れ込むように作られています。左岸側は直角に曲がった、階段状になっていて、こちらもゆっくりと直角に川に流れ込むように作られています。

  資料によると、阿蘇山周辺は火山性地質で、地盤が脆弱なので、水流が強まると左右からの水流で中央部の水流を弱めるようになっている。落水時の衝撃で基礎部分の崩壊を回避するための工夫だとのことです。

 竹田市の大野川上流にある、重力式コンクリート造及び石造の堰堤で平成11年5月13日に白水溜池堰堤水利施設として国の重要文化財に指定されています。ただし、河川法では堰堤の高さ15メートル以上をダムとしているので、堤高が13、9メートルの白水堰堤は、正式にはダムではないが、通称白水ダムと言われています。

 ダムが造られた目的は、竹田市と豊後大野市緒方町を流れる富士緒井露(ふじおいろ)の水量不足を解消するために設けられた堰堤です。昭和9年4月に着工、昭和13年3月に竣工しました。

 堰堤を超えて流れる水流や、左右両端の流路が作り出す水流の美しさは「日本一美しいダム」とも言われています。 
 
 
 
 特集 「昭和と私」
 (そのⅠ)      東京便り(NO.26)                佐々木 朝雄

  
      
9月号原稿募集の題目は「私と昭和」という事で、私も振り返ってみる事にしました。
 
   私が生まれたのは、大正15年5月26日(1926年)で、広島・双三郡・三良坂町(現在の三次市)の農家の六男として生まれました。

  大正天皇が、この年の12月25日崩御され、年号が「昭和」と命名された年で、元年は僅か6日間でした。私は「昭和」と共に歩んだと、言えると思います。

  
       ● 戦時中
昭和8年4月小学校1年に入学、この年から国語教科書が、「サイタ・サイタ・サクラ・ガ・サイタ」に改訂されました。また、この年の11月15日JR三良坂駅が開通して盛大な祝賀式があった事を記憶しています。
 
 小学校5年生の昭和12年7月7日中国・北京の西南方向の盧溝橋で起きた盧溝橋事件(支那事変)が昭和の戦争の始まりでした。そして、私の兄も戦死(昭和13年3月19日山東省)、母が毎日、台所で涙を流していた姿を今でも覚えています。
 
 昭和16年12月8日午前6時の朝のラジオ放送で大本営発表が繰り返し放送され戦争が拡大化した始まりでした。
   当時、中学3年生の私たちも、軍事教練が科目に組み込まれ配属将校によって厳しい訓練が実施されました。

 私は5年の三学期に繰り上げ卒業で(昭和19年1月6日)三菱三原に就職しましたが、戦火が厳しくなるにつれて、工場から機械設備の疎開が始まり、中之町や西町の山に馬車で運ぶ毎日でした。

 一方、工場には人手不足解消のため、多くの学徒勤労動員が入ってきて生産に参加した時代でした。
 
  昭和20年8月6日午前8時15分アメリカ軍が広島市に原子爆弾を投下し、壊滅的被害が出たことが報じられました。
  私の兄は、広島銀行本店に7月転任したばかりで、私は三原から探しに出かけ、被爆した広島の街を、母を連れて一日中歩き回りましたが、見つけることが出来ませんでした。

  あの惨状は今も頭に焼き付いて忘れることが出来ず、今回の福島原発事故で又、原爆の恐怖を思い出されました。戦争のない、原発に頼らない平和な暮らしを切に願っています。

  昭和20年8月15日正午、昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送を聞き、終戦を迎えましたが、あの時は、今後の我が国がどう なってゆくのか、とても心配で、不安だったのを覚えています。
  
       ● 戦後
 幸い戦災を免れた工場は、国土復興のための鉄道車両を多量受注する幸運に恵まれいち早く生産を再開しました。

 昭和22年12月には、戦後復興を督励される天皇陛下をお迎えして「苦しいだろうが、重要産業だから頑張ってほしい」とお言葉を賜り、期せずして天皇陛下万歳の三唱が沸き起こりました。

 一方、昭和20年12月労働組合法の公布を受けて、私たちの工場では外部の共産党・社会党の指導のもと労働組合が相次いで結成され、一時は四組合(職員組合・従業員組合・労働組合・第三組合)があったが、お互いに統一の機運が高まり、私は職員組合の書記長として参画し、昭和26年11月2日統一の組合が結成されました。

  これがきっかけで昭和31年まで組合役員を務めて退任し職場復帰しましたが、昭和43年再び外部からの組合攪乱工作で裁判事件に発展したことから執行委員長を引き受け、沈静化に努め、組合会館の建設と県・市議会議員選挙に候補を立てて当選を果たすなどして3年間組合再建にあたりました。

  昭和46年9月から職場復帰して生産管理部門で勤務したのち、昭和55年関連会社に出向派遣となって、宅地造成と建設・ストア経営などを担当し商売のむずかしさを経験しました。

 特に、昭和62年6月からの3年間、生きクルマエビ養殖に携わり、養殖池を耕運機で耕し、砂の入替する清掃に始まり、稚魚を購入して産卵させ、養殖池に放流して育成させる難しさと、取り上げ梱包し航空便で築地市場に出荷して高値取引の喜びは得難い経験でした。
 
 
 
 (そのⅡ)    「昭和と私」三度の災難         山本 次郎

  「昭和一桁組」は、今過去を振り返ってみると、あらゆる点で日本の激動期に巻き込まれて、育って来たようだ。
 まず「教育制度」がある。小学校に入学する時は「尋常小学校」であったが、途中で「国民学校」(昭和16年)に変わり、物心ついた時には「日中戦争」の戦時色一色であった。教科書は勿論「国定教科書」で国語の第一ページは「サイタ サイタ サクラガ サイタ」であった。それより前は、「ハナ ハト マメ」だったそうだ。

 私は不思議なことに、学校関係ばかり三度火災にあった。

  一度目は小学校の木造校舎が、全焼した事件であった。あれはまだ2年生の時だったと思う。小さな村の学校なので青年学校も同居しており、そこの女生徒のアイロンの火の不始末(当時は電気ではなく、炭火を用いた)と聞いた。
 
 お蔭で、新校舎が出来るまで、村でただ一軒あるお寺の本堂で、ミカン箱を並べて勉強した。新しく出来た校舎は勿論木造だが、随分立派に思えた。今風な暖冷房装置は当然無く、その上、講堂がないので、教室3個分をぶち抜いて広間とし、開閉式扉で平生は教室として使い、祝祭日の日には扉を開けて、講堂として使っていた。

 従って、隣の授業の声が筒抜けに聞こえてきた記憶がある。

  二度目は中学生になってからで、原因はよく判らなかったが、木造の一校舎が焼失した。翌日登校したらその部分だけすっかり抜け落ちて、青空がまぶしかったのを覚えている。
 
  この時は外にヤドカリせず、階段教室や実験室を使って凌いだ。中学校でも教育改革のはざまで、旧制中学で入学し、太平洋戦争終結後、「新制中学」―「新制高校」に改正され、計6年間(昭和20年~26年)在校したことになる。
 
  話は前後するが、大東亜戦争開戦時(昭和16年12月8日)はまだ小学生で、校庭は異様な雰囲気だったことを覚えている。背広姿の村長初め、校長、村会議員、学童、村民が集まり、台上に上がった村長が「我が国は、西太平洋に於いて、米英両国に対し本八日未明、戦闘状態にいれり」とラジオニュースを繰り返し叫んだ。
 
 初期は奇襲攻撃が功を奏し、連戦連勝が報じられたが、次第に反撃されだした。あらゆる物資は不足して配給制、キップ制となり、特に食糧事情は厳しく、大豆・麦が主食となり、米は少々であった。学校は食糧不足と軍による施設の接収のため、中学生は午前、商業生は午後と二部制となった。

  2年生以上は造船所、町工場や強制疎開に狩りだされていた。1年生は学習であったが、これも空襲警報が鳴ると指定の通路を通って帰宅することになっていた。我々「向島組」は千光寺を通って帰るのだった。

  終戦まじかの4月、空襲警報が響きわたったので、急いで千光寺へと友人と走った。山頂には戦時中とて誰一人いず、満開の桜花だけが寂しく散りかけていた。我々は「花見」とシャレこんで弁当を食べたことがあった。
 
  またこんなこともあった。空襲警報が解除になると登校することになっていたが、しなくてもよいと云う「流言蜚語」に惑わされて、行かなかったことがあり、後で大目玉をくったこともあった。
 
 また、1年生も強制疎開の勤労奉仕に狩りだされた。家屋に綱を掛けて引き倒すのだ。(当時重機はない)福山は既に空爆されており、次は尾道と信じられていた。鉄道沿線添いの家屋は悉く破壊・撤去された。
 
  幸いにも尾道は空襲を免れ、戦後鉄道沿線添いの空き地が新国道二号線となったのである。
 昭和20年8月6日の広島への原爆投下は、風の便りで、特殊爆弾により壊滅したと聞いた。兄が広島の学校にいたが、丁度学徒動員で呉工廠に行っていたので助かった。
 
  8月15日の玉音放送は学校が夏休みで社宅にいてラジオを聞いた。雑音がひどくて内容がよく聞き取れなかったが「戦争は終わった」のは判った。「灯火管制」は解除され、家族一同ほっとしたことを覚えている。
 
  夏休みが終わって登校してみると、まず教科書に米国の都合の悪い所はスミを塗って隠す作業で始まった。また新しく配られた教科書は、新聞紙を八枚折りしたくらいの粗末なものであった。

  教師連中も戦争中は威張っていた配属将校はおらず、剣道・柔道は廃止され、竹刀をもって颯爽と闊歩していた教師もいなくなり、更に資格のない先生方も早々に姿を消していた。
 
  昭和20年代の後半は戦後の疲弊した経済が次第に復興と歩み始めた時だが、学生生活はアルバイトに明け暮れる日々が多かった。寮生活で、その木造の建物は旧呉海軍工廠のものを移築したものだった。

  1部屋は12名、「蚕棚」のごとく上下6室ずつ相対して12室ありその間は10畳位の板の間であった。このくらいの部屋が10室?2階建ての大きな建物であった。それに食堂が別棟であった。その寮が火災にあったのである。

  三度目の災難は、工学部の寮に相対して50米位離れた場所に同規模の教育学部の寮が建っていた。ここの寮生の自室への放火により当方の寮に延焼し、丸焼けとなった。私は殆ど何も持ち出せなかった。ただ何を思ったか、ハブラシとインク瓶はしっかりもっていたのを記憶している。咄嗟の時には、日頃の「地」がでるものらしい。
 
  数日後に迫った学年試験があったが延期してもらい、友人のノートを借りてやっと凌いだ。
 三度も学校火災に遭い、よほど「運」が悪いのであろう。そのせいか、卒業時に就職口がなくて、困った。丁度朝鮮戦争の特需も終わり、経済界が不況に揺れる昭和30年のことである。
 
 
 
 (そのⅢ)      私にとつての昭和            宮畑 明文

   思う存分に仕事をさせてもらった
   
  昭和16年4月1日、国民学校となった最初の1年生として入学、その年の12月8日真珠湾攻撃で大東亜戦争突入、5年生の夏、終戦。昭和22年4月、六・三・三制教育制度となった新制中学校の1年生から入学、発足時1・2・3年生が同時入学。国民学校も新制中学校も1年生から入学したのは、昭和9年生まれの学年生だった。

  私たち昭和9年生は教育制度の変革期の変わり目、変わり目に遭遇したことになる。
 小学校5年生の終戦時、それまでの教科書は没収され、教科書なしの期間が何か月かあったように思いますが、ほとんど記憶にない。残念ながら小学生の間の勉強はあまり記憶にありません。田舎だったせいもあり、空襲もなく直接の戦争被害はなかった。

 ただ出征兵士を送るときと、戦死された人の遺骨を迎えるときは、全校生徒がその行事に加わっていた。いずれも知った人ばかりだった。出征の時は「出征兵士を送る歌」、戦死のときは「海ゆかば」を唄った記憶が残っている。そのときどんな気持ちでいたのかは定かな記憶はない。

 小学校入学以来「国のために」という教育を受けて、言われるままに行動をとっていた。戦争に負けると、思ったこともなかった。

  私は農家の6人兄弟の長男だったので、物心がついたころから、母親から「あんたは農業を継いで親兄弟の面倒をみるんで!」と耳にタコができるほど言われていたので、中学を卒業後、高校は農業科に入った。

  しかし1か月ほどで嫌になり、思い切って私立工業学校の機械化に転入した。1年先輩に2人の生徒がいて、成績も品行もよかったので、そのお蔭で認めてもらった。県立高校は、編入は認められないとにべもなく断られた。
 昭和28年高校卒業後、運よく地元のM重工業(株)に入社することができた。今振り返ってみれば、よくぞ転校を決心したものと思う。人生に「たら・・・」はありませんが、もしもそのまま農業科を続けていたら、と思わないでもありません。
 
  会社生活を振り返ってみると、高度成長期のさなかに、働き盛りの年齢だったことも、運がよかったな!とつくづくそう思います。

  昭和30年代後半から、石油化学、製鉄、製紙産業などの工事が忙しくなり、石油コンビナートがあちこちに建設されました。そんな中、私もプラント機器の製造や国内外のプラント建設の仕事をさせてもらい、思う存分に働くことができました。
 
  人から見れば、気の毒がられた仕事を度々命じられました。また誰もが嫌だという職場の長も命じられましたが、自分にとってはその方がやりがいのある場と思っていたので、自分の思うように、存分にやったという満足感があります。いい時代だったと思います。
 
 
 
 (そのⅣ)   昭和の一コマ   「選挙の体験」     中山 範之

 
  旧布野村出身の歌手、二葉あき子さんの訃報を聞き、ふと赤名峠の登り口布野を懐かしく思い起こした。

  故人となられたが、中之町のM・O氏が県会議員から衆議院議員に立候補された昭和54年に、私は運動員として45日間、三次市十日市町にある中国電力三次営業所に駐在した。

渡された名刺には「○○後援会三次地区担当」「○○選対本部三次地区担当」の2種類で、連絡事務所は中電労組三次営業所支部になっていた。
 
  私の受け持ち範囲は、三次・庄原の2市と双三・比婆の2郡9町村の広範囲で私にとって一軒の知り合いもなく、正直どうなるのかと思ったが、何事も経験と決心して出向いた。

  中電労組三次は200人足らずの組織で、専従は委員長Iさん一人、書記長が半専従で、西も東も分からずやって来た私に対して、面倒をよくみていただきお世話になった。

  同行者は現三原市議会議員N氏で彼には東城町に駐在してもらい、私は三次の巴橋に近い「中瀬旅館」を宿舎に、寄せられた後援会カードを持って地図を頼りに、来る日も来る日も、家を探し訪ねてあいさつ回りを行った。
 ある日、日が暮れて比和町で道に迷い、自分がどこにいるか全く分からなくなった。今のように携帯電話があるわけでなく、山道をさまよった。ようやく一軒の店を見つけたが、戸を叩いても出てくれない。店先の公衆電話で中電三次営業所に連絡した。

  私の帰りをIさんが待っていてくれて、わけを話すと「電話を置いて一番近くの電柱の番号を知らせ」といった。電柱に番号があることも知らなかったが、ともかく懐中電灯で確かめて、その番号を知らせた。即、ゼンリン地図の○ページX行Y段が現在位置で、そこから県道へ出る道を指示してくれた。

  私が想像した位置から方向違いであったが、無事三次へ帰着した。Iさんいわく、人の住むところ日本全国、電気は通っているから、電柱番号を知ることでその位置がわかると。なるほど・・・
 
 今は遠隔操作になったが当時、小奴可、君田、高野、作木の水力発電所には、従業員が配備されていて、オルグがてら水力発電を見学、専門外の勉強をさせてもらった。

  シートベルトの着用が義務付けられても、中々身につかない頃だったが、中電の朝のミーティングは車の点検、指差呼称の訓練など徹底していて、きっちりシートベルト着用で行動していた。私もIさんと各地に出向くことが多かったが、忘れ勝ちなシートベルト着用を、よく注意された。

 亀井静香国民新党代表も初出馬で、その地元で、また社会党候補の福岡義人氏(のち三次市長) の家が中電三次のすぐ近くにあった悪条件の中で、活動したことは後々、私の何にも代えがたい体験であったと思う。

    当選の報に、備北の票は少なかったけれど、ともに一生懸命選挙戦を闘った中電労組三次の人たちと喜び合ったことは生涯忘れられない。
 
  後日談があって、その後、Iさんは布野村の村会議員になられ、年賀状のやり取りは続いていたが、あれから18年後、私が家内と北海道旅行した際、道内のある観光地でばったり再会した。しかも日を変えて2度も・・お互い抱き合って喜んだが、不思議な縁にびっくりした。
 
  私にとって半世紀余りの昭和は戦前、戦時中、戦後を通して、まさに激動の時代で、ひもじい思いもしたし、我慢を強いられた。戦後は追いつけ、追い越せでがむしゃらに働いたことは、みなさんと同じであろう。

今日あるのは、そのための良い面と悪い面があると思っている。会社の仕事以外でも、多くの人との出会いがあり、多くの思い出ができたことを本当に幸せに思う。
 
 
 
 (そのⅤ)          昭和は激動の時代      奥田 旵 
 
66回の終戦記念日を迎え、語り継ぐ戦争と題して、新聞・テレビ等戦時中のドラマ等を多く放映し伝承の必要性を強調している、振り返ってみると。
  
 ★ 戦争へ走った道
 昭和初め大不況で、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増してきた中、昭和6年9月18日奉天の郊外柳条湖に、一発の爆破音によって、満州事変の戦争への幕開けとなった。

 昭和7年の5.・15事件は、海軍青年将校による、犬養首相を暗殺・続いて昭和11年の2・26事件は、陸軍青年将校の官邸襲撃の、クーデターを起したが幸いに、岡田啓介首相は無事だった、此の頃より軍の支配力が強くなり戦争へと進む事となっていった。

 時代は急速に軍国化に突き進み昭和12年7月7日の蘆溝橋に於いて銃声が響き、最初は不拡大の方針であったが、怒涛のように戦火を拡げていき宣戦布告なき戦争への泥沼に、のめりこんだのが、支那事変である。

  日本の南進政策に対抗して構成された、A(米)・B(英)・C(中)D(和蘭)による包囲網であり、在米資産の凍結・南方からの資源・石油等の全面輸出停止された。これらの圧力を軍部は極力宣伝し緊迫感で戦意を高めた。

  日独伊の条約は必ず日米間の戦争をもたらすと危惧していた、海軍や多くの反対者の中、昭和15年9月27日、日独伊の三国同盟を締結された。
  
昭和16年11月29日宮中から全重臣に御陪食があり、元岡田首相らは戦争に必要な資材から勝てる計算が全く無いことを申し上げたが、午後の御前会議が開かれ、東条首相は経済封鎖によって戦力が低下しないうちに開戦すべしと強調し、亡国戦争への道を選んだ。

  昭和16年12月8日午前零時を期して奇襲作戦を開始し、太平洋戦争に突入した。緒戦は華々しい連戦連勝であったが、昭和17年6月5日ミッドウェー島攻略作戦を展開したが、米国は既に戦力の強化されており、レーダーによって探知されて、海軍の主力航空母艦、熟練した大多数の兵員を失い大敗北となり、

 この敗戦以後は次々と各地において敗北の一途であった。昭和20年8月6日広島・9日長崎に原爆の投下・ソ連軍の日ソの中立条約を一方的には破棄し、軍事行動を起し、特に北方四島には終戦後の8月23日に攻撃を受け約58万人程の日本人をシベリアに、長い期間抑留され多くの命を落とした。

  昭和18年後半頃から戦況は益々悪化が激しくなり、国内の状況は、物資不足、食料難の中ひたすら勝利を信じて頑張ってきて、学徒動員・女子挺身隊強化・学徒出陣・徴兵の年齢の引下等次々と制定され、多くの若い命が散って行った。

  又女子・子供等を巻き込んで決戦体制へと進み竹槍の訓練・赤紙・白紙の令状で召集され多くの人達が、戦地・軍需工場に借り出された。終戦後は、物資の欠亡・復興に対しても、政府は威信も補給も失っていた。

  国民は家を焼かれ、家族を失つても少しづつ気力を回復し再建へと進んだ20年代は戦後の復興・30年に入ると本格的な生産体制・4050年代高度成長時代となり多忙を極めたが、50年後半から60年に、国内の景気に陰りを見せ始め、昭和の時代も終わりをつげた。
 
今放送中のNHK朝ドラ「おひさま」の放映を見、遠い昔の事が思い出されます。勤労奉仕・学徒動員等で殆ど学業につけず、戦況が益々悪化となり、学徒動員中、クラスメートが卒業を待たずに予科練へと出征し、私も卒業して間もなく海軍の特別幹部練習生として故郷を後にした。

  未だ17・18歳の大人になってない多くの人達が、旅立っていった。当時は入隊は死を意味するもので二度と故郷には帰れぬ覚悟であった。多くの村人に見送られ、列車の窓から段々と小さく消えてゆく故郷の光景、其の時の心情は現在の人達には到底理解して頂けないものと思います。

 
  ★ 軍部の過信は国を滅ぼす
 開戦半年で東南アジアから中部太平洋の要域を制圧したが、開戦前に立てた計画はここまでであつた。

  特に海軍は2年しか成算が無いことを強調していたが、初戦の戦勝に夢覚めず、戦争は熾烈となり、戦う武器も無いのに、本土決戦・一億玉砕を叫び、我が国は神国であり、必ず神風が吹き勝利すると叫ぶ軍部であった。

  米国は輸送船団を徹底的に攻撃し、戦地への補給を絶ち、各地で玉砕が次々と発生した。20年に入ると東京を始め、各都市は壊滅的に廃墟と化し漸く終戦を迎えた。もう少し早く決断しておれば被害も少なかったと思う。

 
 
 
    C型肝炎との戦い(3)               佐藤  紀久恵
  
         9、過去には
  (1) インターフェロンの終わった後、医師に聞いてみた。「先生、10年くらい前に針治療を受けましたが、その時ウィルスを貰ったのでしょうか?」

  『いや、かなり長い間抱えておられたようですから、子供の時にお医者さんで貰われたのではありませんか?』…とすると、私は針治療で他の人に移したかも知れない!針治療の先生はみんなに新しい針を使って貰っただろうか?

 (2) 中学2年生から卓球を始めた。子供の頃から体の弱かった私は、体育系のクラブなど到底入れないと思っていたが、気になる男子が卓球部に在籍していて、どうしても同じクラブに入りたかった。

  試合は3セットゲーム・21点先取だったが、2セット後半くらいで息が続かなくなり、サーブを出すのに少し長い間を取っていたらしい。顧問の先生に『試合の途中で長休みをするね』と言われたことがある。卓球は実に面白く大好きになった。

  今は福山市だが、当時は府中芦品地区代表として広島で開催される県体にも出場した。そこで三原市から出場されていた抜群に上手で有名な楢原選手(妹さんの方)の試合を見た。

  現在、私がその三原に居るのをとても不思議な縁だと思う。卓球人口は尾道よりも三原のほうが断然多い。最近はなかなかチャンスがないが、いずれまた卓球を楽しむ日が来れば良いなと思う。

  (3) 以前は1年間に6~7回風邪を引いたし、3日で治らず最短でも1週間治らなかった。つまり年間の5分1は布団にいたかも知れない。肝臓に治す力がなかったのであろう。
 
 私は何をするにも他の人より早く疲れてダウンした。弱い体質だと諦めては居たが、やりたいことはいっぱいあったので、始めるのはすぐに始めるが、たくさんの事を途中で投げ出した。長い間のあの【しんどさ】はなんだったの?と、言って行く所のないやるせなさ……何十年も!
 
  (4) 私は朝寝坊だった。夜はけっこう頑張れるが、朝は起きられない。高校生の頃【四当五落】という言葉を聞いた。四時間の睡眠で受験勉強をすれば入試に合格(当選?)するが、五時間眠る人は落ちると。これを試してみた。1週間は4時間睡眠でなんとか過ごせたが、次の1週間は10時間の睡眠を要した…頑張れる限界を超えているとすぐに諦めた。

  睡眠のことでは夫と言い争いをした。滅多に言い争わない私達だが『8時間も寝たのだから起きたらどうだ』と言われて「起きられないのだから寝させてよ!」と。健康な夫にしてみれば余りにも睡眠時間の多い私にいらいらしたのだと思う。

  (5) 子育ては5歳・2歳・0歳の男児ばかりになった頃からしんどくなった。体を使う遊びが多く…傑作は自転車の四人乗り【長男を後ろに乗せ・次男を前に乗せ・三男をおんぶして私が漕ぐ】糸崎の社宅から三原駅前のみどり書店まで良く行っていた。

  新倉ハイツへの引っ越しが決まり、車の免許を取るまでの二年間ほど・・。学生の頃、卓球部でランニングをしていると『横にころがした方が速いぞ!』と遠くでヤジが飛び【豆タンク】とあだ名で呼ばれていた体は、紺色の服を着ると『ゴボウみたい』と言われるほどになった。
  
            10、最近のこと
 告知を受けてから7年経ち、インターフェロン治療が終わって2年半が過ぎた。最近は【体が軽い】と思う。体重が減った訳ではない・・・そこで【良かった探し】をすることにした。



・ C型慢性肝炎が治って良かった。                ・ 老大の講師が続けられて良かった。
・ 家庭医が見つかって良かった。                   ・ 夫が家事上手になった。
・ 朝寝坊が減った。                                         ・ 老大でたくさんの出会いがあった。             
・ 以前ほど無理しなくなった。                          ・ 定期検査を受けるようになった。
・ 毎月一回の山歩きが楽しい。                       ・ 沼田川堤の夕方の散歩が楽しい。
・ 借りている畑の仕事が楽しい。                    ・ その他いっぱ~い!!!

  
                         11、最近、好きな言葉は
               
            1日 健やか        1年 爽やか            1生 穏やか 


                         12、自分との付き合い
 C型慢性肝炎との戦いには医学の力を借りて勝った。だが自分の身体との付き合いは人生終わるまで続く。母の亡くなった年齢まで後20年、出来るだけ健やかに、楽しい時間の多いことを心がけつつ日々を過ごしたいと思う。

                         13、ちなみに
 治療にかかった費用は病院への支払いだけでも百万円を超えたと思う。補助金制度が出来る直前だったから。私の治療が終わってから補助金制度が出来て月額一万円くらいと言われた人がおられた。私は月額三万円を超えたと思う。

                        14、老大は
 奇しくも『人生 最後に お友達のできるところ』と言われた方がおられた。毎年在籍のまま鬼籍に入られる方が居られる。私も出来れば【ピンピンコロリ】になりたい。

 この【たい】の気持ちを大切にしましょう!と研修会でお話させて頂いております。私の60代は「老大の先生になりたい!」から始まったのです。

この「メールの輪」をたくさんの方が読んで下さり、お声をかけてくださいましたこと、深く感謝致します。(完)
 
 
 
          中国の笑い話           松浦 浩安

        安心して!
 ママと坊やが動物園へ行って園内を見て廻り、ライオンの鉄の檻の前に来たときに、ママが坊やに言いました。
「坊やライオンの檻に近寄りすぎては駄目よ。」すると坊やが答えました。「ママ、安心して!ボク、ライオンにいたずらなんかしないよ。」

        暴君と易者
 昔、暴君が易者を呼びつけて聞きました。 「わしは、いったい、いつ死ぬのか、お前には分かるか?」
 易者が答えました。「あなた様がお亡くなりになるのは、祭日でございます。」不審に思った暴君がまた聞きました。
 「なぜそのようなことが断言できるのじゃ?」 易者が答えました。「それは、あなた様がいつお亡くなりになろうとも、私たちにとっては、その日が祭日になるのでございます。」

       泥 棒
 とても貧しい家に忍び込んだ泥棒、しばらくあちらこちらを物色しましたが盗る物がありません。
チェッ!と舌打ちして扉を開け、出て行こうとしますと、ワラをかぶって寝ていた主が物音に目をさまして呼び止めました。「おい泥棒、扉をきちんと閉めて行ってくれ」すると泥棒は怒って言いました。
「なに一つ盗んでいないのに、俺を泥棒呼ばわりするとは、片腹痛いわい!」

      狐狸的分配
        (狐の分配)
 ある日、虎と狼と狐が一緒に狩に行き、兎、雉それに野生の羊をしとめました。 虎が狼に言いました。
「お前はこの獲物をどう分ける?」「はい、こう分けます。」狼は答えました。

  「兎は小さいから、狐に食べさせたらいいでしょう。雉は私が食べます。大王様は大食漢ですから、羊を召し上がってください。」虎はその言葉を聞くなり怒り心頭に発し、腹たちまぎれに、狼へ思い切りビンタを一発くらわせましたので、狼の目玉は飛び出してしまいました。
 
 虎は今度、狐に言いました。「お前ならどう分ける?」びくびくしている狐は言いました。
「兎は大王様が朝食にしてください。雉は大王様の昼食です。羊はもちろん大王様の夕食でございます。もし余ったら私どもが少しいただきます。もし残り物がなくても結構です。」
 
  虎はとても満足して尋ねました。「こんな公平な分け方を、お前はどこで学んできたのだ。」
狐は狼の目を指差して言いました。「私はあそこから学んだのでございます。」
 
 
 
   川柳ひろば 01号               野村 賢悟
   


筆影山登山口の
川柳句

 突然ですが私は、元、地球の整形外科医の、野村賢悟と申します。老大には過去、ハーモニカ3年、パソコンは現在3年目でビスタ上級に在籍しております。

 「メールの輪」のことは先日、ビスタ上級の廣勢先生からメールを頂き、読ませて頂いたので、どんなものか多少は分かった積りで居ましたが、ハーモニカ仲間で、「メールの輪」に拘わっておられた、勢登さんから、偶然にも原稿を出して見たらといわれ、私には何も、文才などは有りませんが、川柳作品なら、自作、他作など、紹介できるかも知れないと考え、恥ずかしながら川柳作品を投稿させて頂きます。

           川柳作品 野村賢悟

       ・ フレームの外を告発するピカソ                     ・ 男から落伍していくストライキ

       ・  紛争のたびに地域の名を覚え                   ・ よろこびの三等分がむつかしい

    ・  昭和史を辿れば核に突き当たる              ・ 万国旗汚して恥じぬ覇権主義

       ・ 首長の心が動く核のゴミ                       ・ 傾いた家にも固定資産税

        ・ 日本の四季がうれしい花曇り               ・ 彼岸花男結びがほどけない

   以上、十句紹介しましたが皆様の感想を頂ければ幸いに思います。
 掲載の写真は、筆影山、和田登山口より車で五、六分の所に建っている、私の川柳句碑です。定年退職をした時の心構えを句にしたものです。
                                 句碑の句

                           人生の余白へ梯子継ぎ足そう
 
 
 
    編 集 後 記

  酷暑にも拘わらず、多数ご投稿賜り有難うございました。8月~9月にかけて世の中は激変の時になりそうですね。
我々老人族も、よく耳目をそばだてて、世間の流れを見定めていきましょう。
 
      10月号の編集担当者は安棟さんです
            多数のご投稿をお待ちします。
         
                                                                                       (やまもと)