メールの輪
第141号
平成23年11月1日 発行
 
 三原老人大学

メールの輪新聞 編集委員会
 
 
               大学祭               安棟 勝

   今年も、各コースで一生懸命に練習、準備してきた舞台発表、展示作品を公開する大学祭が、リージョンプラザ、中央公民館で行われた。

  23日のステージ発表は入場者も多く、大変好評だった。展示作品もコース毎に工夫を凝らされ、技術もプロ級の作品が多数紹介されていた。又、絵手紙、レザークラフト、陶芸、パソコンの体験コーナーの充実が目立ち、夫々人気が有り、参加者多数で、特に好評だった。
  



4才の挑戦
  コース毎の紹介は、ほぼ、例年通りになるので、紙面の都合上、別の機会に譲り、今回は体験コーナー、特に、「パソコン体験コーナー」での嬉しい情景をご紹介する事にした。
      「パソコン体験コーナー」に四歳児が挑戦!
  初日の午前10時ころ、乳母車を押した若いお母さんが、二人の子供さんと「パソコンの体験コーナー」にこられた。お兄ちゃんの方がパソコンに興味を示し、壇上に上がって貰った。
 
  意外なお客さん(四歳)に、担当者一同、一瞬とまどったようだったが、流石ベテラン揃い、席を準備してパソコンの前に着席。廣勢先生が一緒にマウスを握り、ペイントでお絵描き開始。

 物おじしない坊やが、段々と出来あがって行く絵に興味津津、先生の指導よろしく、遂に仕上がった絵をプリントして貰った時の嬉しそうな表情は忘れられない。将来が楽しみ


陶芸に挑戦


二匹の兎


笠地蔵
    昨年に続き「陶芸体験コーナー」も人気上々だった。家族連れの参加が目立った。
展示作品にも面白いものが色々あった。編み物の作品の「2匹の兎」は思わず笑顔で見た。

  ステージ発表の英会話コース「笠地蔵」おじいさんとおばあさんの雰囲気も!! 

 今年も、書・陶芸・ちぎり絵・写真・編み物・・・コースの作品には、外部のコンテストで入賞するなど、素晴らしい作品が沢山あり、これが、老人の作品かと感心するものばかりだった。

  例年のことながら、フェスティバルの中でも三原市の老人パワーの大きさを通感した。
 
  ただ、全市あげての生涯学習フェスティバルなので、見学する場所が多く、見学する方は消化不良の感が有ったのでは?と些か気がかりである。
 
  今年の入場者総数も、昨年同様約、5,000人を超す程の盛況だった由。関係の皆様ご苦労様でした。
 
 
 
 
  やっと酷暑が過ぎ去り、秋冷の候 かと思ったが気候の変化は地球的に正常ではない大異変が頻発している。
▼日本列島を縦断した台風12号・15号は東日本震災の復旧が緒についたと思っていたら、今度は紀伊半島に集中豪雨をもたらし、大洪水や土石流の甚大な被害をもたらした。この天候異変は日本国内のみではなく、タイ、チリ等の諸外国でも大洪水をもたらし、タイ国は国が沈没しそうな大被害を受け、国外へ進出した日本からの企業も大きな痛手を被っている。

▼10月9日の体育祭は絶好の好天に恵まれた、市長をはじめ来賓多数出席のもと盛大に行われた。20地区がA・B・Cに分かれて競技した。また生涯学習月間の行事の一環として、恒例の「老人大学祭」も10月22・23日の両日学習成果の発表会があった。

▼日本が大災害の復興・復旧に大童の最中に、国外ではFTA(自由貿易協定)・TPP(環太平洋経済連携協定)等、聞きなれない文字が新聞紙上を賑わしている。この際自己の利害得失のみでなく将来の日本のためになる結論を出して欲しいものだ。

▼ギリシヤに端を発したデモはユーロ圏のみならず、米国等にも波及し、「対岸の火事」と安閑としていられない事態になってきた。次はスペイン・イタリヤに飛び火するのではないか。日本も無関係ではいられまい。「備えあれば憂いなし」・・・・
                                                             (文責・山本) 
 
 

      三原市民体育大会

 10月9日(日曜日)三原市沼田東町の三原運動公園で、市民体育大会が開催された。市民約3400人が参加し、リレーや玉入れ競技に汗を流した。
 
 成績・上位は次の通り
       A=田野浦、須波、幸崎、  B=沼田東、中之町、本郷東  C=沼北、糸崎・木原、鷺浦

      (注) 画像にカーソルの矢印が触れるとになる写真をクリックすると拡大する。
 


選手宣誓


小学生混合リレー
 
 


二人三脚むかで競争
 


玉入れ競争
 


縄跳びトラック競争
 


総合成績表

 
               「体育の日」の由来
 国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法一七八号)第二条によれば「スポーツに親しみ、健康な心身を培う」ことを趣旨としている。
 
  昭和39年の東京オリンピックの開会式が行われた10月10日を、昭和41年から国民の祝日とした。
 平成12年から「ハッピーマンデー制度」の適用により、10月の第2月曜日となった。                                   (インターネットより)

 
 
 
    東京便り(NO.28)               佐々木 朝雄
    
            ● 葛飾区柴又を訪れる
 秋晴れの晴天に恵まれた九月末日、愛犬を連れて、『男はつらいよ』渥美清主演(山田洋次原作・監督)のテレビドラマや映画で有名になった 葛飾区柴又にドライブに出かけました。

葛飾区は東京東部に位置していて、私の住んでいる世田谷区は西部で、約38q。往路は首都高速道3号線を通りましたが、三連休の渋滞のせいで、約2時間かかり到着しました(ホームページのマップご覧下さい)。

しかし、車窓からは六本木ヒルズやミッドタウン、東京タワー、皇居などが見えて、楽しいひとときでした。到着後、まず帝釈天に参拝しました。
 
  正式な名前は経(きょう)栄山(えいさん)題(だい)経寺(きょうでら)で、寛永6年(1629)日忠上人が草創した寺院で、日蓮上人が自ら刻んだ帝釈天の板仏が本尊になっているため、江戸時代から「柴又帝釈天」の名前で信仰を集めるようになり親しまれたといわれています。
 
  帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、目を見張るものが多くありました。中でも「多宝塔出現之図」の浮き彫りは多くの人々が手を合わせ信仰して歓喜している姿が、心に深く残りました。

参拝の後は、参道を歩きました。お目当ては、草団子です(笑)

  映画では、寅次郎のおじさん、おばさんが経営する草団子屋という設定の高木屋に入りました。撮影の度に山田洋二郎監督やスタッフが立ち寄った店だという事で、店内には当時の渥美清さんや歴代マドンナ、撮影風景の写真がたくさん貼られていました。草団子はもちろん、焼き団子も美味しかったです。

この参道には団子屋の他にもせんべい、天丼、鰻屋など色々なお土産屋が立ち並んでいました。お腹も満足した後は、柴又駅まで参道を散策し、寅さん記念像を見ました。
そして、帝釈天の裏の矢切の渡しを含む江戸川の河川敷の方へ行きました。
  
  周辺は柴又公園として整備され、葛飾区観光文化センターがあり、この、文化センターA棟には、「葛飾柴又寅さん記念館」がありました。

  入館すると、入り口には、「寅さん記念館」の看板を取り付け中の寅さん!ユーモアのある作品に思わず笑ってしまいました。

  この記念館では、映画「男はつらいよ」の世界を13のエリアに分けて紹介されているほか、建物中央の吹き抜けにはシリーズ全作品のロケ地が一目でわかる「こころのふるさとマップ」が設置されていました。


    
  また、寅さんを育んだ、昭和30年代の帝釈天参道の街並みを、精巧な模型で再現されていて、寅さんが愛した下町の風情を偲ぶことが出来ました。その後、柴又公園に出て、愛犬を散歩させながら江戸川の河川敷にある「矢切の渡し」に行ってみました。

  しかし、そこは、21日静岡県に上陸した台風15号で江戸川が氾濫して渡し場は跡形もなく流されていました。
 
  帰路は、首都高速道の渋滞を避けて、環状七号線を通って帰る事になりました。通称「環七」と呼ばれている道路で、東京23区を環状で廻っている一般道です。葛飾区から、足立区、北区、板橋区、練馬区、中野区、杉並区を通り、自宅のある世田谷区まで渋滞もなくスイスイ帰ってきました。

  
  途中、スカイツリーが色々な角度から見えたり、新宿の高層ビルを眺める事ができました。
  余談ですが、もし東京に震度6弱以上の地震が起きた時には、この都心をぐるりと囲む環状七号線の内側は全面的に通行止めになり、出入りも制限されるそうです。

  往路と復路を違う道路を通り、たった一日で東京の主要部全てを見物が出来たような、得した気分でした。



 
 
  「秋たけなわ」                           安棟 勝
  


蜜の誘惑
  
  
  秋冷を感じる晩秋の季節になりました。先日、島の中をドライブしていて、須ノ上地区のグループ「相須留会」の皆さんが、島の景観維持のために奉仕活動で育てておられる花壇に、コスモスが見事に咲いていました。

  秋桜と言われる満開のコスモスの花は見事でした。幸い、カメラを持参していたので、数枚を撮影して帰りました。その時の作品です。

  カナブン(コガネムシ)が頭を突っ込んで、カメラを近づけても、逃げようともせず一心に蜜を吸っている「白い花」があったので撮ってみました。

  上の原画を[フォトショップ・エレメンツ]でレタッチして見ました。
 一心に蜜を吸っている部分を強調するために「スポットライト」が当たっているように仕上げて見ました。
 
        菊 花 爛 漫           山本 次郎
    近所で毎年菊花を丹精こめて育てている方がいて、栽培の苦労話を聞きながらカメラに納めた。
 
 
 
  初仕事が百号記念号で幸せだった   大成 昌司
 
 
  大先輩の中山先生が体調不良のため編集委員を退任されて、中山先生の組に私が編集委員として入ることになった。4名いれば先輩3名についてやっていればいいと全く軽い気持ちだった。当時は大方が1組4名の編成で、4組か5組あったと記憶している。

  小郷氏は、健康上、あまり無理ができないとのことで新米の私も積極的に先輩たちのお手伝いをすることにした。11ページか12ページが普通だった。 さすが記念号しめてみれば14ページになった。

  容量が多くなっても、100号のために皆さんが貴重な時間をさいて書き、寄せてくださったのにどの記事も没にすることはできなかった。

  本を読んでいて、図の圧縮機能を使ってファイルサイズを小さくできることが分かった。編集作業をしているから、こんな勉強もできたと嬉しかった。
 
  皆さんから寄せられた記事から「メールの輪」新聞の原点を知ることで、私自身編集委員の仕事が色々勉強になったことと重ねて考えた時、先達はすごくいいことを始められたと感心した。

 
  良い指導をされ、現在のパソコンコースの礎を作られた豊原先生の記事に、「ワード、ペイント、インターネットの学習の一助として新聞の作成を勧めた」とある。

 また中山先生は記事に、「ワード、画像の勉強の究めつけは新聞の編集」と書いている。そして谷川先生は、草創期を回顧しながら「前向きに挑戦する心を教わった。失敗、またよし、成功には感動がついてくる。できないことがあるから、人生は楽しいと思えるようになった」と結んでいる。
 
  
  編集委員になって、初仕事が記念号で重荷に感じたけど、記年号だから学べたこともあり、いろいろな形、長さが不揃いの原稿を1枚に纏められたときは達成感と感動にしばし陶酔した。

 この新聞で我が老大は外部から高い評価を受けていると聞く。12月号で廃刊は念な気がする。休刊でも再発行は難しいと思う。何とか継続する方法はないものだろうか?

  私の「メールの輪新聞」との出あいは、どなたにいただいたか定かでないが、金子収雄さんの寄稿文が掲載されている1枚だった。金子さんに届いた手紙を感動したからと紹介している。
            

            チョットいい話
(大成)
         
 歴史のまちに今新しい風
  腰が悪いため、歩くことが苦手な友人が、会津若松にツアーで行き、ついて歩けないため、鶴ヶ城の入り口にある石の台座に腰掛けて一人待つことにした。残念な気持ちが表情に出ているのを見て、自転車で通りかかった若い娘さんが声をかけてきた。
  
 正直に、腰が悪くツアーについて歩けない残念な気持ちを話した。若い女性は、「家がすぐそこだからあとで取りに来ます。あそこへ置いといてください」と言って立ち去った。

  おかげで桜が満開の広い庭園を、自転車で回遊して満喫することができた。感謝の気持ちを伝えてもらうべく市長に手紙を書いた。市長から折り返し電話があった。

 後ほど送られた会津若松市政だよりに「歴史のまちに今新しい風」と題して市長の言葉があった。

  『自転車の女性と同じこの会津に住むことの誇りと幸せ・・市民に誇りと幸せを与えてくださった自転車の女性に感謝します』  以上は記事の概略。

 百号までを読んで思った。散歩道で小さな花をみつけた話もいい。紙面で感動を共有できたらすばらしいと思う

  「老兵は死なず、消え去るのみ」     中山 範之
  
  
   「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」1951年4月、更迭されて日本を去る時、連合軍司令長官ダグラス・マッカーサー元帥が残した有名な言葉ですが、「メールの輪」新聞の存続最大のピンチに際し、なぜかこの言葉が思い浮かびました。

  私は体調を崩した3年間を除き、第5号〜第97号まで、乞われて第133号から復帰して現在まで約100号の新聞編集に携わりました。

  節目の第50号で「メールの輪によせて」を、また第100号発行に際し、「第100号発行を振り返って」を書きました。どちらにも「存続の危機を乗り越えて」という言葉が入っています。この度は果たして乗り越えられるのか?正直自信がありません。
 
 1回目の危機は「メールの輪新聞」生みの親である、発案者の豊原先生が退任された時、止めるか続けるかで意見が分かれました。2回目の危機は編集者が次々に去られ、少なくなった時でした。編集委員を手分けして募集、増員して一時的には危機を脱した感じでしたが、高齢や家庭の事情で退任者が続き、編集者が数名になって本当の危機が来ました。

  発足当時は、教える先生も一人でしたし、インターネットから学ぶという時代ではなく、私にとっては、新聞を作ることを通して、ワードの書式を学び、画像の勉強をし、交流を深めて教えられたことが多く、いま後輩に伝えられる知識の多くの源泉だと思っています。

  後継者が出ない原因はいろいろあるでしょうが、はっきりしているのは時代の流れだと思います。特にインターネットの発展と高速大容量の通信網の飛躍的発達で、一般的に文字離れになったこと、日常、携帯電話やメールでことが済み、手紙は書かないし、年賀状だってパソコン任せ、老大のパソコンコースの選択は多岐にわたり、大学院で多くの先輩から微に入り細に亘って教えていただくので、新聞作りを通してワードの文章編集や、画像を勉強するニーズがなくなったといえます。

  「メールの輪」新聞を通して情報を発信し合い、お互いの交流を深めようと会が誕生しましたが、最近の状況は一部の投稿者に限られてきた感じで、会報の意義が薄れました。

  愛読していただいた皆さんには申し訳ないと思いますし、私自身ログ感覚で駄文も多く投稿しましたので、少し寂しい気持ちですが、この辺りが老兵の引き時かと思っています。
      「思い出                    山本 次郎


H16年度大学祭


学習風景


学習風景
           老大生活のいろいろなイベントが走馬灯のように回り流れて行く。
 
     川柳ひろば 03号                         野村 賢悟   

   いま、新聞、週刊誌、テレビ、ラジオと、各マスコミがこぞって川柳を取り上げてくれていますが、いざ、作るになると、なぜか皆尻込みをして仕舞うようです。読むのは好きだけど作るのはと…

  私が川柳に手を染めたのは十代の頃で、新聞に投句して初めて活字になったのが「嘘」という課題で「係長の嘘都合よく通るなり」という句です。今から思うと赤面の至りですが、その時のうれしさは格別のものでした。

  以来、途中で休みながらでも止めずに来たことは、今になっては私の人生にとって宝物になっています。

  川柳には「川柳に師なし。されど会う人みな師なり」という格言があります。川柳をやる人は基本的には横の関係は有っても縦の関係は有りません。いわんや、ことさらに縦の関係を求める先輩がいたら、私はその考え方に組みすることは出来ません。

  川柳は自分の心の中を信念にもとずいて吐露するものであり、吐き出す物です。ですから川柳は、自分の名前が入って、初めて句は完成すると言われています。つまり、作品には自己責任がつきまとうものです。ですから、ふざけた雅号などはもってのほかです。

 とはいっても最初からその通りにはいきませんので、生活を五七五にまとめる事から川柳は始まるのです。
          孟 姜 女                            松浦 浩安

   
  秦の始皇帝の時代に、孟姜女(モン・ジャン・ニュイ)という美しくて気立てもよい聡明な若い女性がいました。彼女は 范喜良 (ハン・シ・リャン ) という男性の家に嫁いで、幸せな生活を送るはずでした。

  当時、皇帝は北方からの敵の来襲に備え、道路の舗装、長城の築造や整備を始めるために、各地から働き手となる男子を集め 長城築造の苦役に当らせていました。

  若夫婦が一緒になってわずか三日後、范喜良は突然やってきた皇帝の兵士に、無理やり連れ去られ長城築造に徴用されてしまいました。

 それから後、夫は一年過ぎても二年過ぎても帰って来ないし、一通の便りさえくれませんでした。孟姜女は尚も待ち続けましたが、もはや待ちきれなくなり、自分で夫を捜しに長城まで行く決心をしました。夜を徹して夫のために着物を作り、夫に会おうとの一心で、旅支度を整えると長城に向け出発したのです。

  野や山を越え、やっとのことで長城にたどり着きましたが、そこでは夫がすでに厳しい労働のために死んでしまい、その遺骨は長城のたもとに埋められていることを知りました。

  孟姜女は 長城のそばまで行くと泣きくずれ、手を打ち続け声を抑え慟哭しました。いつまでも泣き続けていると、突然大きな音がしたと同時に、長城はまるで天地が裂けたかのように崩れてしまい、見る見るうちに人骨の山が現れてきたのです。

  もの凄い数の人骨でどれが夫のものか全く分かりません、孟姜女は泣き続けながら、愛する人の骨には愛する人の血が浸み込むという故事を思い出し、中指を傷つけて血を流し込みまました。すると故事の通り、崩れてしまった長城の中から、ついに夫の遺骨を探し当てることができたのです。

  秦の始皇帝は孟姜女が嘆きによって長城を壊したことを知るやいなや、烈火のごとく怒り、軍を率いて長城にやって来るなり、自らの手で孟姜女を成敗しようとしました。

  しかし始皇帝は若くして美しい孟姜女を一目見るなり、すっかり気にいってしまい、妃として迎えようとしました。
しかし孟姜女は頑として従わず、最後には夫の遺骨を抱いて 海に身を投げてしまったのです。二人にとっては理想の相思相愛で真実の愛でしょうが、これは短くも儚い悲哀の物語です。
 
  古来、中国では孟姜女が貞女の鏡、そして始皇帝は万里の長城で恨みを築いたといわれています。孟姜女にはいろいろな伝説があり、これはその中の一つです。
        親父と晩酌                             泉 育享

 私の父親はもう十数年前に93才で他界したが、親父の思い出は酒なくしては語れない。よく働きよく飲んでいた。しかし酔いつぶれて大声でわめき散らしたり喧嘩したりするようなことはなかった。

  カラスの啼かない日はあってもおやじが毎日の晩酌二合を欠くことはなかったと言えるほどであった。その上お正月とかお祭りの日などは朝から飲んでいた。それでも酔いつぶれて寝てしまうことはあっても醜態を晒すようなことはなかった。しかも死ぬ間際まで病気で寝込んだり、ましてや大病で入院することもなかった。    
   それほど人も羨む健康であった。よく他の人たちが[どうしたらそんなに健康を保てるのですか?その秘密は何ですか?]と尋ねられると、父はいつも[それはよく働いて毎日規則正しい生活をすることです。

  健康の為、休肝日とか称して週に1日か2日は酒を飲まない日にして肝臓を休ませてやる日にする。とかいう人がいるが飲んだり飲まなかったりそんな不規則な生活をしていては健康的ではない]と答えていた。         
私も父親の健康体の血を引いてか幸いなことに、今までのところ大病を患ったことはない。お酒も好きな方である。父は夏でも冬でも燗酒(日本酒)一本であったが、私はオランダ生活が長かったこともあって、いろいろなお酒をたしなむ。(ほぼ毎日)。

  家内が夕食の支度をしながら「今日は日本酒がいいよとか、今日は白ワインがいいよ」とかアドバイスしてくれる。

  ヨーロッパ のディナーパーティーでは料理は勿論フルコースであるが、お酒は食前酒、食中酒(メインディッシュとして魚と肉が出るのでそれぞれの白と赤のワイン)、食後酒(デザートの時)そして最後の仕上げにアイリッシュコーヒー(ウイスキー入り)とかフレンチコーヒー(コニャック入り)まである。 さて、今夜は何を飲もうかと秋の夜長は悩み多しである。
       富士山駅                                竹井 清夫

   [富士山]という駅名が登場した。  山梨県の大月から河口湖を結ぶ富士急行の富士吉田駅を今年7月に改称したものだが、世界的に知名度の高い富士山を駅名にすることによって利用者増につなげようとする目論見だろう。

 しかし、この日本最高峰は山梨。静岡の両県にまたがっており、静岡県側の地元では複雑な思いもありそうだ。今やすっかり定着している静岡県富士駅もかつては似た立場だった。この駅は明治22年に東海道本線が全通した時にはなく、新たに駅が設置されたのは20年後明治42年のことである。

  当時の所在地は富士郡加島村で、そのまま加島駅にという請願もあったというが、結局は富士山や富士川にちなんで富士駅と命名された。駅の設置にも命名にも、前年に進出した富士製紙の工場が影響を及ぼしているかもしれない。

  加島村の方は昭和4年に駅名に合わせて富士町と改称、それが現在の富士市。隣の富士宮市は戦時中の命名だ。富士山本宮浅間大社の門前町であるが、かつては大宮町と称した。

  「大宮」とはその浅間大社を指すが、昭和17年に市制施行する際、埼玉県大宮市と同名になってしまうため、浅間大社の旧社号をとって富士宮と新たに命名した経緯がある。

  一方、山梨県側では富士急行の前身である富士山麓電気鉄道が昭和4年に開業した際に、終着駅を富士吉田駅と命名している。当時の所在地は南都留郡福地村で、中心市街が大字上吉田。富士を冠したのは、やはり富士山観光を意識したのだろう。

  その駅名は昭和26年の市制施行時に、富士駅と同様に市名として抜擢される。富士市、富士吉田市ともに駅名が先だった。富士山駅だけでなく、みんな昔から日本一の山にあやかりたかったのである。
                                                                                      「地名の謎」より 
   事務局便り      

    先だって、平成23年度「危険業務従事者叙勲」の広島県叙勲対象者の発表がありました。警察や消防などで活躍された92名が選ばれ、その中にパソコン本郷教室代表である仁田雅司さんが瑞宝単光章を叙勲されることになりました。

  三原市から瑞宝双光章1名、瑞宝単光章1名計2名の叙勲で11月3日発令されますが、老大にとっても名誉なことでお祝いの拍手を送りたいと思います。
       編 集 後 記

   今月は大学祭のため多数のイベントがあったに拘わらず、沢山の原稿を投稿くださり、感謝しています。世相はいろいろと騒々しいようですが、老人は老人らしく気楽に暮らしていきましょう。
 
           11月号の担当は山本・播摩でした
          12月号は安棟・中山・山本が担当 します。   宜しくお願いします。
                                                       (やまもと)