メールの輪
第142号
平成23年12月1日 発行 
 
三原市老人大学

メールの輪新聞 編集委員会 
 
 「メールの輪新聞」さようなら
   
     終刊の言葉            
 アンケートの回答、有難うございました。結果は、何とかして継続を希望したい・・・と言う方向の回答が、約70%でした。

 しかしパソコン創設時に比べて、パソコン全体の習塾度も高くなっており「時代の変化」で「メールの輪新聞」としての学習的な使命を終わったと考えられます。又、1グループでの運営では、継続のための「編集委員の確保、投稿数・範囲の拡大」が困難になりました。

  結論として、使命を終わった「メールの輪新聞」は、平成23年12月号で廃刊とすることに致しました
従って運営母体「メールの輪の会」も平成23年12月で解散することに致します。

 現在続けてご投稿頂いている方、度々ご投稿を頂いている方、そしてご愛読頂いている皆様には、誠に申し訳ございませんが、事情をご了承下さるようお願い申し上げます。

  「新しい酒は、新しい革袋に!」と云う言葉があります。ここはひとつ、マンネリを脱却する意味からも、人心を一新し、皆様パソコングループの総力による、新形態の芽生えを期待しています。  ではまた!
 
 この終刊号には、色々な思いのこもった原稿、貴重な内容のご投稿を頂いています。皆様のご熟読をお願い致します。    
                                                                                  編集担当一同(安棟・中山・山本)
 
 
 
   
 日本では、新燃え岳の爆発、東日本大震災と付随した原発事故による放射能被害、台風15号による紀州方面の大水害、国外ではタイ・バンコックの水害、トルコ方面の地震等の天災に加えて、ギリシャの経済破綻から、ヨーロッパ経済不安、付随しての超円高と経済面でも暗いニュースが続いている。

  放射能とバンコックの浸水被害は未だに収まる気配がなく、特に、深刻な問題である。今年は何故か?天災と経済問題の多い年だった。

▼老大は来年度、創設40周年を迎え、飛躍、充実のバランスのとれた活動が期待される年でもある。中でも、パソコンコースは、誕生以来14年を迎え、学内の大勢力になり、その運営、活動の見直し時期でもあると思う。

▼パソコンコースの創設期にスタートした、「メールの輪」の会による学習新聞は、残念ながら役目を終えて、終刊になったが、パソコンの総力で後継誌の検討なども、課題の一つかも?

▼年賀状の発売、クリスマス商戦のスタート、お歳暮、おせち料理の予約・・・と、気の早い年末気分の中での日本シリーズ。七戦まで戦った接戦は見応えがあった。ただ、日本シリーズ「そっちのけ」の読売巨人軍の内紛はいただけない。ワンマンの時代か?

▼度々取り上げてきたが、大きな話として地球の将来を考えて欲しい。何故地球人として、脱環境破壊・脱原爆・脱戦争に英知を絞れないのか??
                                                     (文責 安棟)
 
 廃刊に寄せて
       初代パソコン講師で「メールの輪」提唱者、豊原先生から、お言葉を頂きました
  
   メール新聞の廃刊をお聞きして、そして近況           豊原 経人                                                                                            
   メールの輪、パソコン講座の皆様には、長い事御無沙汰をしておりました。
この前100号記念の際に、編集委員の方からお知らせをいただいて、投稿させていただいて、とても懐かしく思ったのですが、この度142号をもって廃刊のお知らせをいただき、ついにそういう時が来たかと、残念ではありますが、それも時の流れかと致し方ないかなとも思った次第です。
 
 お知らせの中にも書かれていますように、パソコンあるいはネットへの個々人の期待、そしてその環境(ハード・ソフト)もメール新聞発刊当時とは、比べようもなく変わってきていると感じています。

 私自身も、パソコンで出来ることを勉強して、それを使いこなしたいという希望から、どんどん進化するネットの世界でSNSやら、ツィッターといった分野で遊ぶということが主になってきていました。そしてそれは歳と共に狭い世界に閉じ籠っていく自分を世の中と繋ぐ一つの手段としていたりしたわけです。

  しかしそれも目まぐるしい時代の(上面だけかもしれない)変化に中々対応しかねている現状を見たりすると、
喧伝される情報とかに振り回されるよリは、もっと身近な家族や限られた人との生活で十分ではないかと思ったりするのです。
 今や人生50年から既に70年になり、更に高齢化が進みますが、私自身は、あと残された時間をどう過ごしたらいいのか、昨今の災害や事故を目の当たりにして、いろいろ考えさせられたりしています。

  以下SNSのブログで呟いたことを引用して、
     ++++++++++++
 Nのハイビジョン特集「神様がくれた時間」 岡本喜八と妻、がん告知からの300日
 岡本喜八(映画監督)と妻みね子さん(プロデューサー)を追ったドキュメンタリーとドラマを融合したような特集
・・・・・・・・・・・・・

  みね子さんが言う 「終わりがあるのに、小さな喜びが続くような・・・」 「食べて、排泄して、それが人間の根幹なんです」 「少しでも一緒に居られる時間を長くもちたい」
・・・・・・・・・・・・・

  ケストナー(独)の言葉=みね子さんが好きだという言葉 「人生を愛せ、死を思え 時が来たら、誇りをもって、脇にどけ」
 
 
      お別れのことば                      中山 範之

     別れることはつらいけど    仕方がないんだ・・・

     さよならなんてどうしても     いえないだろうな・・・
 
  ・どんな素晴らしい記憶力も、書き取った記録には、かなわない。

 ・経験したことだけが知識である。その他は、ただの情報に過ぎない。
 
 ・道のありがたみを知っている者は、道のないところを歩いたことがある者だけだ。
 
 ・我々を助けてくれるものは、友人の援助そのものよりは、友人の援助があるという確信である。
 
 ・すべてが失われようとも、まだ未来が残っている。
 
 ・「バイバイ」は別れの言葉、「またね」は、いつか再開への言葉。

   最後の原稿のお別れの言葉は、私の気持ちの表現として「星影のワルツ」と「名言集」から言葉を借りました。永年「メールの輪」をご愛読いただきました皆様にお礼を申し上げます。

 第1号から最終142号まで編集委員を続けられた安棟さん・山本さんのご苦労に心から敬意を表します。また142回連続投稿されました安棟さんのご努力に感謝を申し上げます。

  「メールの輪」新聞142号のすべては私の宝です。有難うございました。
 
 
 
    メールの輪新聞 休刊に寄せて               奥田 旵  ◆長い間ご苦労様でした
 平成11年に「メールの輪新聞」が発刊され今日まで、歴代の新聞の編集に携わってこられた皆様、ご苦労様でした、色んな困難を克服されて今日まで続けられた事、深く感謝申し上げます。
 皆様の色んな記事・珍しい写真、美しい写真等色々と勉強となりました。

 ◆メールの輪新聞との出会い
 新聞との出会いは平成15年度「大学院パソコンBコース」にお世話になった際、10月頃「メールの輪新聞」の会員募集及び新聞が教室に掲示され、入会の勧めもあり入会する事とし、自己紹介の記事を書く様にと事で、平成16年1月号に記載させて頂きまして、以来ボケ防止にと思い投稿させて頂きましたが、今日までに約19回の投稿となりました。

  私は仕事柄エクセルしか使用せずワードは簡単な文書しか使用せず、新聞の記事の挿入写真等、場所が一定せず困ったことを思い出します(現在でも未だうまく出来ませんが?)

 時代の流れとはいえ休刊は非常に残念ですが、いた仕方の無い事と存じます、編集頂いた皆様に感謝とお礼を申し上げ、今後の若い方の出番を期待いたしたいと存じます。
 
 
 
  編集委員をやってよかった
    感性や視野が広がったように思う!
               宮畑 明文
  メールの輪の編集をするようになって、自らも積極的に投稿をするようになり、野の草花や樹木などにも「アッこれは絵になる!」と感じたり「これは面白い形だなあ」と写真に撮ったり、夜明けの空を見て感動したり、雲の形を見ても面白いと感じることが多くなった。そうしたものはできるだけ写真を撮り残しておくようにした。      

 新聞は隅々まで目を通して、原稿の種になりそうなものは切り抜いてとっておき、特に興味を持ったものには赤い線を引いておき、原稿を書くときに参考にした。TVでも「アッと感じたものはメモを残すようにした。
 
  また、小学生のころから作文は大嫌いだったのに、文章を書き続けているうちにだんだんと、書くことの楽しみも感じられるようになり、それほど嫌いでなくなってきた。書いたものが自分史の1ページにもなり、いい記録になっている。みんな編集委員になったおかげである。
   
    
  
  H18年6月、自分が生まれ育ち、物心がついてから70年もずっと見てきたのに、家の横の神社にある老木の形が、老人の顔に見えるのをはじめて発見した。自分が老人の域に達したから発見できたのかもしれないが新たな発見だった。

  また、朝日の出っぱな、自分の影を見て影絵をつくり遊んだのも、「これは面白い!」とひらめいたのは原稿を書くようになって、どんなものにも興味を持ってみるようになったおかげと思う。この影絵は面白いという感想を頂いてとてもうれしかった。
    
             褒めてもらうのはうれしい
  
  特にうれしかったのは、これはっ!と思って撮った写真を、安棟さんから感想をもらった時である。何回か着眼がいいと褒めてもらい、それがとてもうれしかった。
 
  原稿についても同様、自分の文章に感想をもらった時はうれしい。先輩の安棟さん、大成さん、
勢登さん、播磨さんからはよく頂いたように思う。それなりに苦労しながら書いたものに、理解や同感の感想をもらうと本当にうれしかった。

  思い出に残る原稿は平成16年1月号から3回にわたり連載をした「消えた面影」である。長文なのに、
自分ながら不思議なほど素直にすらすらと書けた。書いているその場面やその先が自然に頭に浮かんできて、それにつられて書いていったように思う。

  今までにない感覚だった。この文が縁で主人公の同僚だったひとから感想を頂き、これも予期しないうれしいできごとだった。

  (注) 画像にカーソルが触れて矢印がになる写真はクリックすると拡大する。
   
     編集担当グ゛ループの思い出あれこれ

     ・谷川、三原詰、宮畑グループ
 編集委員になって最初のグループは谷川、三原詰、宮畑の3人だった。谷川さんには、未熟な2人を、親切丁寧に指導してもらった。原稿の割り付け、写真の挿入のやり方、太字や修飾文字などのやり方などいろいろ。

  編集に行き詰まったときは、谷川さんには家まで訪ねて行って教えてもらったこともある。いつまでも私の先生であり、本当に感謝をしている。

  この3名はコンビが長く続いて、メールの輪の代表、副代表,世話役も3人でやり、メールの輪の総会と懇親会を、三菱健保会館で何回はやったように思う。当時メールの輪の会(30数名)のほとんどが集まって、情報交換やにぎやかな懇親の会となっていた。その頃が懐かしい。

       ・広勢、小国、宮畑グループ
 この時はリーダーを決めて、後はくじ引きにしてメンバーを決めていたように思う。この中では小国さんが初の
参加でした。原稿が集まったら3人集まって、担当などを打ち合わせをしていた。

 小国さんはとてもまじめで几帳面な人だったので、方針を決めたらほとんど小国さんに任せていた。ページに空欄ができたときは、急遽「宮畑さんここを明日までに埋めてください」とメールが入り、何とか、かんとか、しながら穴埋めをしたこともある。      小国さんは体調不良で途中からひかれたのが残念でした。

            ・宮畑、本井、勢登グループ
 この組では自分がリーダー役でしたが、昭和一桁生まれの同世代(と云っても自分が一番若く9年生まれですが)で話はよく通じ合ったように思います。特に勢登さんは積極的でしたので、編集会議の時にはスムースに役割が決まりました。

  本井さんは最終ページとあとがきは「自分がやります」と言って引き受けてもらった。勢登さんは、必ず2件の原稿は準備されていて、それだけでも編集は大助かりでした。
 
  勢登さんからは、編集の間にでも自分の原稿を読んでもらって、感想を頂いた。それだけでも原稿を書いた楽しみがありましたが、元校長先生から文章力や内容について褒めてもらい、大きな自信となりました。

               ・ 終わりに! 
  メール新聞ありがとう。お蔭でいろいろ学びました。仲間もできました。 そして編集委員の経験者、
輪の会の皆様いつまでもご壮健で!

 
 
 
      「メールの輪」と私                          谷川  史江
 
   「メールの輪」で単なるメール交換の他に全員参加で、できる事はないだろうかという事で提案された「メールの輪」新聞が、この12月号で142号を迎えますがこの号限りで廃刊とは非常に残念です。創刊号よりかかわった一人として当時をほんの一部だけ記したいと思います。

  平成12年の創刊当時は、編集委員も少なく講師を含めて八名。二人一組で毎月一日発行…というかたちではじめられましたが、PCを学び始めて2年目、何をするにも手さぐりで、豊原先生や仲間の皆様に助言を頂きながら発行できた時の感動は、今も私の心に強く残っています。

   新聞発刊に向けて一生懸命でした。その解決方法の一つとして毎号担当者が発表する勉強会(編集委員会)も開かれました。そのための手順書も努力して各自作成しました。

 ドキドキしながら勉強会で発表したものです。納得の行くまで時間をかけて皆で議論しました。現在の私があるのもその時培われた大きな糧のお陰と思っています。

仲間意識を育むために、「連句ひろば」でメールの交換をいたしました。平成12年2月3日のNHK広島の「みみより一番」で連句ひろばが紹介され、皆なで応募した中の2句がよまれました。

 後ろには短冊に書かれた連句が掲示されていました。その中に自分の句を見つけました。思わず笑みが・・・

 次の日には、三原市の老人大学が紹介されました。嬉しいときめきを覚えました。

 「メールの輪」会員有志でパークゴルフも楽しみました。また、当時の双三郡君田村「地域情報化ネットワークシステム」を見学しメールの交換をしました。そのことで多くを学ばせていただきました。

  今回、142号で廃刊となりますがその間紆余曲折もありましたが、私はこの「メールの輪」新聞に携わる事により、何事にも前向きに挑戦する心を教わりました。失敗、それもまたよし! 成功には感動が付いてくる・・・できないことがあるから人生は楽しい! こう思えるようになりました。
 
 
         メール新聞を振り返って                    播摩 照子
  
メールの輪新聞に出会ったのは、サンシープラザでの大学祭の展示コーナーでした。
 見ていると、どなたかが、写真を撮ってあげましょうといわれ、その写真を記事の中へ取り込まれた事にはびっくりしました。 私もやって見たいと思いパソコンコースに入学しました。
 
 当時はサンシープラザでの授業で豊原先生お一人が、多くの学生を教えておられました。まもなく教室が老大に移り、習得された岡本さんがリーダーとして教えて下さいました。瞬く間にパソコンコースは増え、先生も入って来られました。
  
HPのコースが出来、75号から新聞の編集委員となり、多くのことを学びました。例えば記事の中へ写真を入れ、記事と写真との間隔を見栄え良くすることなど、当時は編集委員も沢山おられ、4班~5班であったが、だんだんと辞められて現在は少数となり、色々な事情もあり第142号で廃刊となるようです。
 
   先輩方が立ち上げられた新聞の廃刊は残念です。新聞編集によって人々の和も感じ感謝致します。ありがとうございました。新しくパソコンコースの皆さんによって誌が出来ますよう念願します。

 
 
        最終号の編集を担当して!                   安棟  勝
  
  メールの輪新聞、約12年間の歴史を閉じる最終号(第142号)の編集を担当し、創刊当時を想起して感慨無量のものが有ります。

  紆余曲折はありましたが、キーボードに初めて触る初心者{パソコンのパの字」から始めた初心者グループが、よくこの長い歴史を築くまで、成長出来たものだと思います。

  初心者にとって、この新聞の編集作業(当時は全員が編集者)がパソコンの学習に大変役立ったことを痛感しています。創始者の豊原先生(初代のパソコンコース講師)のご指導のお陰だと、一同深く感謝しています。
 
  パソコンコースの平均習熟度も高くなり、パソコンの高速化、ネット交信の進歩などで、メール新聞の役目も終了と思われます。永年の投稿、編集、愛読と、ご協力有難うございました。

  See you again!! (ではまた!))の気持ちで、パソコンコース全員での新しい芽生えを期待しています。
      「新しい酒は、新しい革袋に!」
 
 
 
   「メールの輪」新聞さようなら                  山本 次郎
     

  メール新聞は平成12年3月1日号を第1号として創刊し、平成23年12月第142号を以って廃刊に至りました。編集委員は当初15名位いて、3名一組で、年2回位当番が回ってきました。

 当番組が原稿募集のチラシや原稿用紙を会員に送付し、毎月の20日を締切日として、集まった原稿を校正・編集してゲラを作成した。

 これを以って月末に編集委員会を開き、このゲラについて、詳細に検討を加えて、当番がこれを基に再編集して、翌月の一日に会員及び事務局・関係者に配布してきました。

 歳を経るに従い、健康上や家庭の事情で編集委員も退任者が出て、遂に3名となり、後継者も無く廃刊の止む無きにいたりました。
 
 下記の表は創刊から廃刊までの年代別の内閣・出来ごと・その年の流行語等を一覧表にしてみました。時代の流れの一端が窺い知れます。
 
 
 
     東京便り(NO.29)                  佐々木 朝雄
   ●「秋を歩こう皇居一周」に参加
  11月17日秋晴れの絶好の晴天に恵まれた日に、「身近なまちづくり推進協議会」主催の成城地区歩行会「秋を歩こう皇居一周」に応募し、カメラ持参して参加しました。
 
  朝9時集合し、参加者40名が4班に別れ、電車で千代田線二重橋駅に下車し、ウォーキング開始。
 大手門から皇居東御苑に入ると、整備された自然の景観を持つ二の丸庭園に赤・白・黄の小菊三鉢が並べられ、コントラストがとても綺麗でした。    

  高台にある天守閣跡地で休憩、NHK放送の江(ごう)〜姫たちの戦国〜が頭を駆け巡りながら、森林公園としての、二の丸公園に進みました、右手を見ながら日本武道館を通り、田安門を抜けて靖国通りに面した千鳥が淵公園に出ると、千鳥ケ淵戦没者墓苑、イギリス大使館・国立劇場・国会議事堂・官庁街などが見えました。

  それらを眺めながら和田蔵門を入り二重橋前までの、約五㎞を散策しました。都心の真ん中ではあるものの、皇居一周コースは信号にかかることなく、自然も豊かで、とても楽しい、85歳で初経験したウォーキンでした。

   ● ありがとう「メールの輪新聞」 12年間、ありがとうございました
 


北の丸公園


北の丸公園入り口




天守閣跡


二の丸庭園


靖国神社大鳥居


大手門


日本武道館


皇居


千鳥が淵墓苑
  S : スタート


イギリス大使館


桜田門

ゴール
所長・班長さんと
記念写真
 「私の海外見聞録」雑感         木原 秋雄・恵美子

  平成9年ワープロコースに入学し、初めて老大の門をくぐりました。「時代に遅れては…」と、既にパソコンは購入していたので、翌年パソコンコースが新設されたのを機に、本格的にパソコンを習いはじめた。そこで、学習の一環として創刊されたのが「メールの輪」新聞でした。

  平成12年5月から連載した「私の海外見聞録」が丁度一年前の22年12月で終りましたので、最終回になりました「百二十八」ではじめて惠美子の名でお礼を述べさせていただきました。  木原秋雄はペンネームのようなもので、最終的にお墨付きをもらうという共同作業でした。

  投稿を引き受けたのは、自分史の一部として、もう一度旅を楽しんでみようと思ったこと、ボケ防止にもなるのではないかと思ったことでした。年令資格を得て老大生として学習もしましたが、何よりも「メールの輪」にかかわったことがいろいろな意味で勉強になりました。夫婦共々大変お世話になりました。

  最終号の原稿募集をされたのを期に、創刊当時からの新聞を少し振りかえってみました。
 


タイムズスクエア
 


参考写真
 


ツインタワー
 


市内観光
  定年後に始めた年一回の夫婦海外旅行の一回目はニューヨークでした。オプションでいくつか観光した以外は、自由行動でスリリングな楽しい旅でした。20年前のことです。その後もニュース映像などで町の様子を見るのが懐かしく楽しみになった。

  国際的にも政治、経済のみならず、文化もリードする町である。世の常ではあるが、よくも悪くも少しずつ変っている。とりわけ、2001.9.11「同時多発テロ」は、世界中を震撼させました。私たちが行ってから9年後の事件ですが、ツインタワー(世界貿易センタービル)に昇ったのを思い出しました。当時はエンパイアーも見下ろす107階からの眺めにびっくりしたものです。

  「メールの輪」も出来るだけ多くの人の記事を、ということもあって1段~2段記事が多かった。私の見聞録もしばらくは1段半~せいぜい2段記事の中に写真1枚だった。写真も不鮮明で、装丁の工夫もなかった 今見ると 修正したいことばかりです。

  「学習の一環」であったのを物語るように、「メールの輪」新聞は次第に立派になっていきました。リードしてくださった方々の熱意と努力には敬服の念あるばかりです。ただ、会員が増えていく中で、全員参加の目標はだんだん遠くなり、編集者は原稿集めにご苦労されているようでした。



アブシンベル神殿
  海外見聞録」のスペースは少しずつ広くなり、写真も何枚か入れるようになりました。2回目の旅行は、新広島空港開港記念でニ ュージーランドへ。
 
  ハワイ、イタリア、ロマンチック街道とスイス・パリ、トルコと続く6回目までが43回で終ったのに、7回目の「ポルトガルとスペイン」からは毎回1ページで仕上げるようになり、写真も多く挿入するようになりました。

  長江・三峡、東欧4国、エジプト、最後の北欧4国で11回目の海外旅行がひとまず終ったのが、128回でした。どの旅行も好奇心をそそられ楽しいものでした。いずこの国も栄枯盛衰の古い歴史があり「百聞は一見にしかず」がよく解るような気がしました。

  早めに遠いところへ行って、歳をとったら東南アジアなど近い国と思っていましたが、長時間の飛行機も苦痛になり、足腰も弱くなって登山用に使っていたストックを使用するようにな旅行の記録は生きた証のひとつでもあり思い出が多く残りました。。

  「健康第一」は何ものにも代えられないが、旅に限らず何か「趣味」を持つことも体力を支えて、心豊かに生きられるのではないかと思います。

  


宗谷岬
日本最北端の地

水平線はサハリン


西表島
サキシマスオウの木
 「旅」の効用はいろいろあるが、脱日常は気分転換になるし、主婦の仕事からの解放されるのが何よりもうれしいです。

  創刊時、「海外見聞録」の序奏として、「旅について」旅と旅行の違いを屁理屈っぽく書いていてお恥ずかしいが、ただ「自分の行きたい所へ自分で計画を練って、地図を片手に、あまり時間に束縛されず…気ままな旅をしたいものである」と。

 北欧旅行の翌年は、夫婦記念の思い出の地、沖縄へ行きました。国内の旅ではほとんどツァーは利用しないので、自家用車を持たない私たちはローカル線にもよく乗車します。

 昨年はツァーでしたが、JR・トワイライトエクスプレス号で北海道へ行き、初めて利尻、礼文島へ渡りました。年に一回くらいは滞在型の気ままな旅(温泉地)をしたいと思っています。体力と気力の続く限り…                                                                                                         おわり
 
 
 
     授かった命を大切にして          安野 典子
  
   パソコン入門で、恐る恐る初めて触った「あいうえお」キー入力、始めてから5年目、やっとここまで訳がわからないながらも、少しずつ登ってきました。

「メールの輪新聞」創刊以来12年間も、継続された宝の山のような歴史ある新聞が廃刊になる?休刊になる?最終号となる! 中山先生のご挨拶を聞いていて私も、まだ、人間が未熟で育っていないことに、胸にジーンと込み上げてくるものがあり反省をしております。

  大先生方の努力で長い間続けられて、歴史の道を開いて待っていて下さったのに、勉強不足の私達がその道を引き継がれず、歴史が閉じられようとしております。
 先生方には何でも良いから投稿して下さいと云われておりましたが、皆さんの投稿文を拝読しておりますと気後れが先立ちました。でも、やはり最終号の新聞となりますと 、堪らなくなりここまで、老大で私を、育てて頂いたお礼を申し上げておかないと 後悔することになります。

  小学校一年生の秋に、発病して以来、運動会も知らずに身体障害者になり病弱で学校にも満足に行けず15までは、生きられないのではと云われ、 養父母に苦労を掛けながら 育ちましたが、今ある命は、養父母が宝物のように育ててくれたお蔭です。

   私には、楽しい青春時代がなく20歳の頃から8年間、仰向けの状態で寝たままの闘病生活を、養母が貸本屋で何冊も借りてくる本で育ちました。

  今でも自慢が出来ることは、仰向けで寝ていながらお椀のお味噌汁でも、コップの水でも飲める、手鏡を見ながら床頭台に置いてある物を何でも取れることです。

  老大で、先生方が持つ指示棒を見ると、長いあのような棒で仰向けの状態で寝ながらカーテンを閉めたり、開けたりする技を懐かしく思い出します。

  まだある、離れ業が・・・起立ができるようになってからは、女性なのに立っていて口が狭い花瓶のような物にでもオシッコが出来る、長い闘病生活で得た技を、年老いてから発揮できるかなぁと思っております。

  ところがどっこい私の身体は、病気のデパートの安売りと云われており、またまた、62歳で乳がんと診断され、右乳房とも、別れて癌との付き合いが始まりました。これも仲良く付き合いをしておりますが、右腕の手がリンパ液で腫れ上がる。思うように身体が動かせない。
  
  それならば座って出来るパソコンで、手のリハビリをしょうと思い、身体が続くかどうか心配しながら入門して、「切磋琢磨」した友も出来てパソコンに惚れこみました。

  私の身体を理解して頂き指導して下さる、先生方にお会いして今が青春時代と、パソコンが出来る幸せに、喜びを噛みしめており生きていて良かったと感謝しております。

  老大の事務局には、特別にお世話さまになり、重いパソコンを持って歩けない! 駐車場を教室の前に特別許可を頂いています。

入門時代には、守安学長さんとは、知らず後ろ向いては、友達扱いでおしゃべりして、お別れ会の時に老大に、バリアフリーを望んでいると述べたら、もうすぐエレベーターが付くから頑張れと云われて大喜び。

  翌年から有り難く乗せて頂き、楽生(学生)として通学させて頂く喜びに感謝しております。左足運転での改造車がいつまで乗れるか?身体がいつまで持つか?どこまで挑戦できるか?の戦いに勝って長生きしたい!と思っております。

  ここまで、皆さまにご迷惑を掛け、お世話さまになりながら「楽しみから喜びへ 学んで輝き 伝えて輝く」を、老大に感謝して歩んで行こうと思います。ありがとうございました。
 
 
 
     川柳ひろば 04号             野村 賢悟
   4号で最終回を迎えることになりました。私などがそれについて、とやかく言う資格はありませんが、12年も続いたメールの輪が、なぜ、終刊を迎えることになったのか残念というほかありません。

  私も形は違いますが、川柳という分野で冊子を発行している立場で考えてみますと、社会に受け入れてもらってないものは自然に淘汰されていく運命にあるということだと思います。

 その原因については一口では言い表せませんが、一番大きな原因は、読み手と書き手が一緒だということです。書き手以外に読み手のないものは、仲間内だけで回し読みをして、自己満足をするだけで、読み手に取って魅力あるものにはならないと思います。そこに何らかのオリジナリテイがなければいけません。

  そのためか、旅行記のようなものを書いても、やたら写真が目につき文章がおろそかになっていきます。そうなると勢い書いた人にしかわからない自慢話の世界が広がるだけだと思います。

 我々川柳の世界でも同じことがいえると思っています。たとえば、私たちは、川柳のことを、ことさら「文芸川柳」などと言って、他人を寄せ付けない一面を持っています。

  今、川柳はある種ブームになって、ぞくに、サラ川と言われている、サラリーマン川柳を、軽蔑するきらいがありますが、読者の数は圧倒的に、サラ川の方に軍配が上がります。

  最終回の原稿を書くにあたって、皆さんの12年間の総括をこの誌上で披瀝せれることを、願い、最終号を楽しみにしています。
 
    防災訓練            中山 範之
 

  9月1日の「防災の日」は1923年(大正12年)死者・不明者14万2807名を出した関東大震災の教訓を忘れないという意味と、この時期に多い台風への心構えの意味を含めて1960年(昭和35年)に制定された。
 
 毎年「防災の日」には国の大規模訓練が行われ、また各県独自の防災訓練が実施されている。

  「自分たちの町は自分たちで守る」ということから、各地域の自主防災組織の結成が叫ばれ、徐々にその輪が広まって来ているが、私たちの町「小坂町」は平成18年度の総務庁消防局の地域安心・安全ステーション整備モデル事業の指定を受け、防災資機材等の整備が図られ同時に、いち早く小坂町内会、小坂団地自治会合同の自治防災会組織が結成された。

   以後、毎年11月3日(文化の日)は小坂町防災訓練の日になっている。今年も第6回防災訓練が実施された。
  今年のテーマは緊急時の一次避難所開設訓練及び避難訓練で、午前8時30分放送で避難命令が出され、住民はあらかじめ定められた場所に集合して、責任者の指示に従って避難所の小坂小学校へ向かい、避難所で氏名を登録して、名札を書き胸に貼り付けた。

  その日は三原市生活環境部、三原市消防本部、三原市赤十字奉仕団、三原市消防団長谷分団、広島レスキューサポートバイク赤十字奉仕団から協賛参加を得て、救護訓練を見学の後、体育館に移動して、三原市市民生活課危機管理係から派遣された職員の「東日本大震災救援体験」の講演を聞いた。

   
  昼食は給食給水班による炊き出しのおにぎりを試食して、講評、挨拶で散会した。災害は忘れたころにやって来るというが、いつ起きても「まず自助、そして互助、2日後の公助を待つ」を肝に銘じたい。
 
 
 
  今年もやってきた小さな訪問者         宮畑 明文

 
 庭に植えている菊の花に、背負いバッタが去年と同じようにやってきました。昨年は珍しく3匹、今年は2匹。3匹の背負い姿は見たことがないので、写真に撮っておきました。

 花を見ていたら今年もバッタがいました。なぜ2年もやってくるのか?たぶん庭の土にたまごでも産み付けていたのではないかと思います。とすると、もしかして、今年の2匹はその子供たち?・・・
 
 インターネットで調べてみたら{バッタ類は交尾の際に♀が♂を背負います。その為か ...}とあります。とすると昨年は2匹の♂が争っていたのかもしれません。それとも♀が♂を選んでいたのかも??

  菊の花は3年前テニス友達から、「苗をやるから鉢植えをしてみいや!」と土の盛り方、サポートや花にリングのやり方まで教えてくれましたが、できたのは1年だけでした。
 
 
 
    皇帝ダリア                      中山 範之

  
   近所(三軒隣り)の皇帝ダリアが、今年もきれいな花を咲かせた。

  最近はあちこちで見かけるようになったが、数年前初めて見たときは、何の花だろう? なぜ高いところに咲くのだろうと不思議に思った。

  皇帝ダリアは別名「木立ダリア」「帝王ダリア」とも呼ばれ、キク科で原産地はメキシコといわれる。丈は3~4メートルもあり、晩秋の空を背景に咲く姿は大変美しい。ただ霜に弱いらしく油断すると一晩で枯れてしまうと聞く。

 木には竹のように節があり、節ごとに短く切って防寒対策が出来れば、タラの木のように挿し木で、春には節から芽が吹くという。また夜は、街灯や電灯が近いと花芽が付かないと聞いた。キク科だけに日が短くなるのを感じて仲秋から晩秋にかけて咲く。

  
 
 
 
        三原バイパス最後の
                 トンネルの貫通
 
                      奥 田  旵

  
     ◆三原バイパスの概要  (新聞記事による)
  
 国道2号線の三原バイパス建設事業は,市内の交通渋滞を緩和し,良好な都市環境の形成を図るとともに,周辺都市との連絡を強化するために,糸崎町から新倉町までの 9.9kmを整備する事業を昭和46年事業化し、昭和59年都市計画決定し、暫定2車供用の道路とし、昭和61年着工以来約25年の歳月を要し、漸く10ケ所のトンネル最後の第4トンネルも平成23年10月完成し来年の3月には全線の開通の予定である。


            ◆連絡道路の散歩

 第3トンネルと第4トンネル間の三原市を一望し、夜明けの海上の雲の変化の表情等素晴らしい景色・連絡道路の工事手法・進捗等を見ながら毎朝の散歩道として楽しんでおります。

 連絡道路も約半分は未だ砂利道で靴底に砂利が心地よく当り、ザクザクと発する音は遠い幼い頃の田舎の道を懐かしく思い出しながら歩いたが、工事用のダンプが通りだしてからは、砂利は土の中に入り込み唯の泥道となっており、今月から舗装工事が始り来年3月完成の予定です。

            ◆第4トンネルの工事予定

           町内会に説明工程では
     ① 準備工事22年6月~8月
     ②工事用道路工事7月~9月
     ③トンネル工事9月~23年3月

  然し実際の工事は町内会に説明の工程とは相当相違しており、其の後の変更の説明は何もされておりません。

        ◆本格的工事の準備

      ①傾斜部の工事    22年10月頃より傾斜部の石垣工事、入り口部の道路の整備工事着手した。
      ②コンクリートの製造設備  コンクリートの製造設備も22年11月に完成した、トンネル工事の完成後
                              23年7月にこの設備は撤去された。
      ➂掘削機械等が搬入  22年12月頃より掘削機械等が到着して本格的に工事が始まった。
       
    
              ◆工事の安全祈願祭

  22年12月21日掘削工事の安全祈願祭を三原市長、国土交通省、工事関係
者出席し、五藤市長のくわ入れし、工事の安全祈願際を行われ本格的に作業に着手した。

              ◆工事の所轄

  バイパス本道は国の所轄で、連絡道は三原市の所轄となっておりますが、全て国の規格に合わせており、夫々の地方に合った規格でよいのではと思うと同時に無駄と思われる案件が目に付き、コスト的にも検討の余地があるのではと思う。
                 
        第4トンネルの大きさ        車線幅員暫定2車線           トンネルの長さ163m
   
      ◆トンネル工事の着工
     22年12月22日掘削工事着工した。
      
   続 三原バイパス工事
        
      ◆工事施工の問題点

  トンネル掘削工事は当然大型の掘削機械で一気に堀り進むものと思っていましたが、一向にその様な機械は見当たらず、関係者に聞きましたら、小さい会社ではレンタル料の高い機械は使用できないとの事であつた。

  トンネルの上部には大きな水道の水槽、電力鉄塔など重要な施設があり、又非常に柔らかい土砂のため、少しづつ掘り進むしか出来ないとの事で、工期も通常より長く要する工事である。

  トンネルの上の山には沢山の歪み計が取り付けてあり、山の変化を監視している様子です。毎日の散歩をしていると交通整理のおじさんと久しくなり、色々とお話をし楽しく散歩を楽しむ事が出来る。

           ◆トンネルの貫通                     

  12月から本格的に掘削開始から漸く6月12日10時30分頃に西側に貫通した時には、関係者の喜びの歓声があがった。
     
  其の後内部・出入り口部の工事・電気工事・排水工事・その他の工事等を行い、10月末に完成いたし、後は道路の整備舗装し24年3月末の完成開通の予定と聞いております。
     
                ◆道の駅の工事

 同時に道の駅「みはら神明の里」がオープンし地元農水物の直売所、180度を見渡せる、展望デッキなどが設け新しい名所として皆さんが楽しまれる所となることを期待しています。

  7月18日道の駅整備関連工事の安全祈願祭を執り行い工事を着工し、工事も急ピッチで進んでおります。
 散歩の際に工事の進捗に合わせて、写真を撮りましたが、トンネル内部は残念ながら内部には入れません。
       女が手伝う 男の料理             佐藤 紀久恵 
  
     
       
1、料理教室

 40代までは、【ガスの火をつけてお茶を沸かすくらいなら、水を飲んで我慢する】という人だった夫が、五十代では、なんとかお湯をわかすようになり、60歳の定年退職後、男性料理教室に通い始めて12年になる。
  「さとうとしお」が夫の名前
  
    2、特製砂糖醤油
  彼が一番苦手だったのは、「味付け」で、特に砂糖・醤油を使うもの。私はHさんから頂いた「ゴーヤの佃煮」のレシピからヒントを得て《特製砂糖醤油》を常備した。

 最近はとても便利なドレッシング用の「口が広く細長いビーカー」(まさに中学生のころ使ったビーカーそっくり!)にゴムの栓が付いているものがあり、これに入れ振っていると砂糖が溶ける。(この容器はKさんから頂いた)

  これをポン酢などの出口の小さな空き瓶に入れておく(醤油さしでも良い)。夏は冷蔵庫に入れた方がよいが、小出しにしておくと冷蔵庫でなくても良い。

  利用できるものは・キンピラ(ゴボウ・人参・レンコン・こんにゃく)・野菜(カボチャ・なす・ジャガイモ・肉ジャガなど)の煮物・魚はこれを薄めて煮る・焼き豆腐・煮豆(我が家はこの味が受ける)

  使いこなすコツは、醤油で味加減を少し調節したり、水や酒で薄めて調節する

 
        
 3、ごま味噌ドレッシング
  白ごまをすり、味噌を入れてすり、ラッキョウ酢は少しずつ入れてはすり、 入れてはすり、後は味見しながらみりんを入れてする。
 ・豆腐の冷ややっこ(温やっこ)
  ・ゆで野菜(蒸し野菜)
 ・生野菜
 ・ゆでコンニャク
など、工夫次第でかなり広い範囲の料理に使えると思う。『これにも使える!』と思われた方は、私に教えてください。

     このドレッシングは、日常的にお料理をされている安棟先生にも伝授して差し上げた。


         
      4、すだちポン酢
  これもドレッシングと同じように使う。近年、すだちを下さるYさんと仲良くなり、教えていただいた。

  夫の為に考えて (?) 常備した、この三種の【おたすけスグレ物】たちは、私にもとても役立ってくれている。自家製のものは、安心して食べることができる。ただし、材料は安心出来る食材を買うこと。

  三原に住んでいると、ご近所や友達から野菜や魚をいただく。自分でも畑を借りてネギくらいは作る。東京に引っ越したときには、「ネギ1本から買わなくてはならない」。寂しいというの、悲しいというべきか、知らない土地に引っ越した不安もあり心細かった。

  10年間の東京生活から、三原に帰れることに決まった時には、心底ほっとした。ワケギ・すだちはもちろんのこと、レシピや容器まで貰っている。(笑)

    
            最近はまりそうなこと            佐藤 紀久恵

   
  CAD(キャド……家などの設計図を描くソフト)は私にとって、エクセルと同等もしくはそれ以上に面白いソフトになりそうです。

  39年前、家を建てる時、鉛筆で描いては消し、消しては描いた現在の家の設計図…夫は『好きなように設計して良い』と私に任せてくれた。5歳・2歳・1歳の男児の世話をしながら、夜11に帰宅する夫を待ちつつグラフ用紙とにらめっこ。

  設計士さんも30代だったろうか…当時の設計図が手元にある。5回の引っ越しにも大事にして持ちこたえた。文字こそ活字だが、手書きのものをコピーしたものだと思う。これをCADで描いてみたい。いつか、きっと・・・

   (CADはフリーソフトなので ダウンロードして使える)
 
 
 
  人権週間記念講演            
           講師 :   ニュースキャスター  宮川 俊二氏
           とき :   平成23年11月27日(日)
           ところ : 三原リージョンプラザ・文化ホール

  三原市人権週間記念講演会として、「講演の内容を手話通訳しながら、ステージの右袖にスクリーンで映し出す」と云う、大変解りやすい手法で、五藤市長の挨拶からスタートした。
 講師宮川俊二氏はNHK→フジテレビを経て2003年フリーになり、ニュースキャスターとして活躍中。

           講 演 要 旨
  
 人権:外国では人権闘争で血を流して獲得した歴史が有る。
       わが国では第2次大戦後に憲法で国家が保障するように
     なった。公共の福祉が狙い。

 報道上の問題
  表現の自由と知る権利が、取材される側にとっては、人権
     の侵害になる場合が多い。報道とプライバシーの問題。

 大阪市長選を取材したが、橋本候補の叔父が元暴力団と・・・と、報道されている問題、本人は公人として受けて、対応できるが、子供たちにまで週刊誌が影響するような報道をするのは問題!

  松本サリン事件では思い込みで、河野さんが犯人の様な誤報道がなされた。地下鉄サリン事件でオウム真理教の仕業と分かり、河野さんが受けた人権侵害等、思いこみ操作、報道が起因。

 爪はがし事件なども、民放独自の毎分視聴率(百パーセント依頼のコマーシャル)から、造られた報道の事例であった。

  3月11日の東日本地震の報道と、その後の原発報道では、客観報道の限界・・を感じる。何をより所に?大手メディアか?ネットメディアか?原発問題はまだ続いている。

 今回の震災で変った事は、日本は地震国で、非常に危険な国である。阪神以来僅か16年間で今回の大災害。いつ東南海地震が起きてもおかしくない。
 
 釜石のほうらいかんの女将の話を紹介された。「うのすまい小学校」の避難について想定外の誘導で小学生全員助かった。津波対策は「でんでんこ」(各自頑張らないと)だと言っている。

  ハザードマップは信ずるな。
    
     ・ 想定にとらわれるな
     ・最善を尽くせ
     ・率先してことにあたれ

  三原市のハザードマップも信用するな(笑い)。 想定が問題・・しない、できない・何れも忘れること。
今の日本の問題は政府から、行政、庶民にいたる調整力である。復興計画と住民の人権(より高い堤防を築いてでも、ここに住みたい等と云う意思)の調整。中国のように人権より公共なら、何事も速い。が問題続出・・・
要は共生と想いやりではないか?
                                                               (安棟記)
 
 
     燃える夕空                      安棟 勝
  

   去る10月25日の夕方、パソコンに向かって集中している背後から「うわ―凄い・凄い!」と言う妻の突然の叫びに、振り向いて西の窓を眺めた。
 
  驚いた―。真っ赤に燃えるような夕空が目に入った。一瞬、火事かと思うほど赤く染まった夕空の迫力は凄かった!
 
  大急ぎで、カメラを持ち出した。急いでセットしている間にも、刻々変わる空の色を気にしながら、大慌てでやっと撮ったのがこの一枚である。

  最も赤く映えていた色は撮り損なったが久しぶりに興奮しながらの撮影であった。       (安棟記) 
 
 
 
     編 集 後 記  

       つらい最終号の原稿募集でしたが、
  廃刊に寄せての心のこもった原稿を多数いただき、有難うございました。思いのこもった原稿を拝見しながら編集していて、創刊から携わった者の一人として、思わず読み入り、紆余曲折の歴史を思い出して、編集に手間取りました。しかし、お陰さまで、何とか最終号らしく纏める事ができました。
 
  出来ればこのまま終わりで無く、第1ページの写真の如く「ではまた!」の気持ちで、パソコンコース総員ベースの新しい芽生えとの再会を期待しています。

  最終号の編集担当は、中山、山本、安棟でした。永年のご協力、ご愛読を有難うございました。
                                                (文責 安棟 勝))